2007/8/31 19・30〜 IWATO /ウジェーヌ・イヨネスコ劇場
不条理劇なんて日本語でもわけがわかんないのに、それが外国語(ロシア語なのか? モルドヴァ共和国の劇団)になったらどーなるんだ?と恐る恐る、観にいく。
昔、あらすじを聞いてから、イヨネスコの「授業」はずっと観てみたかった。
フライヤーを手にしてそれを言ったら、年上の(受講生)友だちがふたりとも、口をそろえて「まだだったら、一度観るべき」って!
うん。 この公演の演出が、正統派なのか特異なのか、わたしにはわからない。
しかも、
前日のレクチャーの講師が別役実さん(不条理劇の大家!)で、作家や芸術の本質を 塑像製作タイプと彫像製作タイプとにわけて説明されて、
わたしは自分が彫像製作を目指しているのだと知り(あああああ!)、
芝居とは所詮、虚構/嘘であり、
ただその嘘は、オムレツのようにふっくらとしたものでなければと表現されて、
(はうううううう!)
自分の細胞が整理されて、生まれ変わった直後のような肌感覚で、そのまま客席に座ったので、
それはそれは、完璧な受け入れ態勢であったのかもしれない。
にしても、スリリング。
前半はね、けっこう眠い舞台だったのよ。
字幕はあったけれど、役者の空気感を見ているとつい見落として、結局、半分くらいしか読めなくて。
逆に不条理劇だから、こんなことをこんな感じでしゃべってんのね、ぐらいだけが掴めれば充分だったともいえるのだけれど。
会社帰りで、やや空腹。
鍋から皿に「水」が取り分けられ、アクターがスプーンを使って飲む振りを始めると、
おなかがクゥとなる。 湯気というか、肉汁の匂いというか、生臭さというか。 想像力をかきたてられるったら、ない。 これが演技という さりげない表現形態なわけだ。 すごいね。
後半の狂気のエスカレート、リズム感、肉体の存在感。 置き換えられる机。
アクトレスのぷるぷるのオッパイの質感、
そこにかぶりつくようで舌や唇を寸止めしている初老のアクター、でも存分に反応しているアクトレス ……という技術で表現されているエロス。
最近、舞台で本番している劇団が話題だけれど、舞台表現とは現実/エロではなくて本質/エロスを表現したときに客の感性に響いてくるもので。
本質は技術でしか表現できないなあ、と。 あらためて。
(いや、本番劇団の公演、観てないんだけれどね。 観たくないし)
この公演のフライヤーには、タランティーノと比較するあおり文句が載っていたけれど、
映像(やコミック)というのは、どんなに暴力的でも自分は現場にいるわけではないから、それは安心して見ていられるわけで。
でも演劇は、つくづく現場なんだね。
いつ自分が引きずり込まれるかわからない、緊張感に支配される。
……かぶりつきだったので、水のしぶきがぴゅんぴゅん飛んできたし。
役者とは目が合うし。
過激な舞台だったけれど、観終わったわたしの表情はふんわりと幸せそうだったに違いない。
後半を際立たせるために、前半は眠かったのかなあとか思う。
人物造形の変化の交差と無交流が、テーマになるのかな?
何よりも、空間の支配力。
今までわからなかった、別役さんのおっしゃる「もの(小道具)には気配がある」という意味も、ちょっと実感。 (作劇では、無頓着に使ってはいけない!)
そのすごさが演劇の原点を感じさせてくれたのだという気がする。