開次さんのポールダンスを息をとめて見上げながら、美しいオスが振りまく匂いにくらくらしたよ。こうしてみているとポールダンスはツールにすぎないことがわかる。結局はからだが何を語るかだし。開次さんのからだは、イノチそのものの荒々しさを突き放す。滴り落ちる。
でもこの作品は、その極上のシーンがほんの片隅のささやかな背景のカケラでしかないという、贅沢な夢。
宝物みたいな映像のリンクから始めよう。
↓↓ ゲネですって。
それぞれが素晴らしい劇団の主宰でらして。作・演出をされる役者さんの、おひとりは台本を書き、おひとりは演出をされて、おふたりとも出演もされて。
開次さんは振り付けもされてて。
アフタートークできくと、役者さんのフリートークの中で稽古は進んでいったようだし、音楽家も美術家も、お稽古に日々張り付いて、作っては壊しを繰り返してらしたようで、
つまりこれは、ありえないほど「船頭」が大勢の演劇。いろいろな価値観が、相手を全体を、探りながら、奉仕しながら、繊細にからみあって自分を昇華していく。
日常的な会話がわずかにズレながら組み合わさると、不条理で意味ありげな、言葉では説明できないノスタルジックなファンタジーと化し、
音楽と歌、バレエ、ダンス。サーカス。リズムがゆがんだオブジェ。光。
わたしの後ろの席では大いびきも聞こえていたwので、苦手な方もいらっしゃると思うけれど。わたしは幸せでしたよ。
浅利さんが完全に手を引いた劇団四季の舞台『アラジン』のささやかな荒さをみてからこっち、浅利さんがいかに緻密でロマンティックな作劇を届けてくださっていたのかが身に染みている自分としては、
その緻密さとはつまり、ミザンスであり、セリフを発するときのからだのあり方であり、ほんのわずかな呼吸の持っていき方なのだと今さら見えてきて、
以来、どの舞台をみても内心、あそこやここが惜しいなあと思っているのだけれど。
それは、この作品の幕切れの若い二人のやりとりでもそうで。ああ、そこの間をちょこっとなおすだけでどれだけ説得力がでてくるか、世界が美しく立ち上るかとか。
ただね。
演出の白井さんはそれが全部わかっていて、あえて放牧してるなと感じられ。そこで変な指導を入れるとなくなってしまう説得力やリリカルがあるからと、ね。
それを黙っているエネルギーのすごさに、ほかでおぎなってしまった演出に、恋に近い熱量でわたしは感動してしまったのでした。
今の日本で、美しい演劇をつくれるのは、白井さんなのかも。
さて。こんな演劇を、地方の劇場から発信している心意気も、応援したいです。
↓↓ チケットまだあるらしいよ。