先日、映画の『スター・トレック イントゥ・ダークネス』をDVDで観まして。
なんともいえないアナログ感やチャラいカーク船長に大笑いしながら、
この愛しさはなんなんだろうなあ、と。
小学生の頃、モノクロのTVシリーズが大好きでした。
男の友情とか、(組織としても、ドラマ構成としてもの)役割分担とか、
スポック博士の(屁)理屈に、ドクターの皮肉。
白人至上主義な時代に異星人や日本人が交じって、ちゃんと活躍しているとか、ね。
でも同級生で見てるコはいなかったみたいで、話題にならなかったなあ。
この映画は、その匂いをちゃんと引き継いでいて、今風なテイストも組み入れて、
わたしは多いに楽しんだのでした。
列車?の上の決闘なんて、映画的な古典シーンもあるしなあ。
なんだろう。
昔のSFには、今では失われた何かがあるなあ。
で。
似た世界観を味わいたくなって。
本棚の奥から、アンドレ・ノートンを引っ張り出しまして。
『太陽の女王号シリーズ』2冊をとっとと読み終わりまして。わくわくと『猫と狐と洗い熊』を読みはじめました。
読み終わるのが、もったいなくなってきたの。
アンドレ・ノートンはお気に入りの3冊しか、手元に残さなかったもんなあ。
どうかな?と思ったのですが、
ちゃんと中・高生の頃と同じように、とってもわくわくとすらすらと読めるのでした。
日本で出版されたのはその頃ですが、作品が書かれたのはわたしが生まれる前なので、
(この出版のタイムラグからしてが、今では考えられないわね!)
SFとはいえ、
お金のやりとりはクレジット紙幣だし、
記憶媒体は主にテープやカセット。驚くことに金属プレート(ディスク)も出てくるけれどね。
ロケットは発着のたびに地面を溶かし、恒星間の長時間飛行用の酸素と生野菜供給のために、水耕場!が設備されてるの。
ワープするためには汗だくになっての「座標計算」が必要だし、計算結果はボタン入力の他にパンチングもしてるって。
(初期のコンピューターは紙にパンチングしてデータを読み込ませてたのよね)
日本語の訳文には差別用語が使われてるし、言い回しが古くて失笑したりもあるけれど。
それでもね。
本当に、なんなんだろうね。この、古典的なSFのもつ、反骨で健全なわくわく。
次の冒険が読みたくなる。
今ではSFやファンタジーが、アニメやゲームを通して市民権を得ているけれど、
昔はほんとに、マニアックという言葉すらが、もっと切羽詰っていたというか、
禁酒法の時代に、地下の扉の向こうにある酒場に通う(って経験はないけれどネ)ような
隠微でめくるめく蠱惑。
オタクという言葉が生まれるずっと前のことですよ。
価値感からが、同志によって、温かく共有・共振されてたってことなのかなあ。