昨日、ナントナク思いついたことなんだけれど。
「なんでもかんでも平等に!」
という考え方や態度が、逆に格差意識を生みだしてはいないかな。
近頃の世間では「それでは平等でない」というマニュアルのもと、
相手の行動を規制したり、権利を主張したりで、キビシク不自由になりたがるでしょう。
個人差の幅の大きさを、格差という言葉にすり替えることで。
――この先が問題だわ。
社会主義学者(とそのフィクサー)は何を目指すんだ?
全員の中で、自分が(も)勝てないのはおかしいって主張。
や。世の中は勝ち負けの繰り返しだし、ほとんどは負けるものでしょ。
大負けした挫折が、自分を育ててくれるわけでしょ。
(んん? この辺の認識が多種あるのかな?)
社会は、人生はチットモ平等じゃないし。だから自分は、だけど自分は。
という意識のある人は、
では人生を生活をどう工夫をするかと、自分自身や運命と、戦うわけで、
社会のせいだとは感じてない って気がする?
そんなことを思いついた。
もっと言えば、言葉を流行らせることでの意識コントロールレベルの
悪意をズット感じてるんだよな。
↑↑ 選挙戦に入ったら即、不当逮捕めいた事件を(たぶんあえて)起こして。
世の中のリベラリストもどきの意識を選挙戦からそらしちゃう。みたいなヤツの長期戦。
ただ。
震災以降の意識の2極化は、とても感じる。
よく吠える人と、黙って受け入れる人。
震災直後は、日本人が2極化していることを受け入れられなかったけれど、
最近はそんなもんなんだなぁと、考えるようになっちゃった。
ふぅ。これについてはもう少し、考えてみよう。わかんないことが多すぎる。
今日はおやすみなさい。こぽぽ (←眠りの深海に引き込まれる音)