今さら?と言われそうだけど。
いつもは素通りする本屋さんの店頭(いつもは奥にまっしぐら!)を眺めながら、改めて思ったの。
メジャーの定義。
いい作品だとか、人気があるとか、あんまり関係ないみたいだったわ。
そこそこいい作品で、そこそこ人の気持ちを動かせれば充分。
それより商品として、どれだけ経済を連動して動かせるか、なのね。と思ったの。
原作として映画やTVドラマになり。
そこにお金を出すスポンサーは、自社の経済効果を狙い。
なので当然、安心、安全、無難がつきまとう。
つまんないわ。でも、
ま、資本主義って、そういうことよね。ホント、今さらだわ。
出版社は、モノとしての「本」を売るために、
気持ちわるいほど、必死に、恥も外聞もかなぐり捨てて努力してるなあとも感じたよ。
うん。吐き気を通り越して、感心した。
舞台芸術は。
どれだけ、社会経済を、他分野の経済をも揺さぶれるのだろうか、と考える。
この時代に「社会的に認められる」というのは、そういうことだ。
経済を動かせないものは、社会に認められない。体よく床の間に飾られて、捨てられないだけマシってか?
うーん。
今から25年前に『キャッツ』はそうなろうとしたよね。5年後には『ファントム』が引き継ごうとしたはずだったよねえ。
いまだに空回りが続いている気がする? 思ったより発展しなかったかなあ。
舞台(ライブ)芸術は、経済効果のツールとしては役に立たない?
そう切り捨てて考えれば、楽なのかな。
経済効果としてのチカラもほとんどないのに、アートとしての権利ばかりを振り回しても、行政を説得できるわけなくね? これは商業演劇以外の場で、よく感じるんだ。
反論しても言葉が届かないので、黙ってることが多いけどね。
民主思想の中で「平等」という言葉の意味が少しゆがんでしまい、
マイノリティにも平等であるべきという考えと、
結果をださないモノに対しても平等であるべきというのが、ごっちゃになってます。
そこは別の場所にユートピアを探すべきじゃない? とか言うとね、
海外のケースを引き合いに出されるのがお決まりでね。
いや、他所の国では文化に対する理解が違うって言っても、歴史の厚みの差が違うことから考えないと?と返すことになるんだが、いよいよ言葉が通じなくなって、ね。
キリスト教をベースにしたボランティアや寄付に対する考え方が、文化に対しても行われているだけだという違いが、まずあるし。
小学校の学芸会すら追いやられ、プレゼントのやりとりを金品で済ませるような日本と、
子どもの日常のイベントとして、合唱や演劇がある(主にキリスト教圏の)国と。
演劇体験を、日本のカラオケや英語教育レベルぐらいに、誰もが通過しているかどうか。
この辺から洗いなおされないと、無理解は払拭できない。価値を実感できないんだもの。
体質的に、どうなのかなあ?という疑問はあるの。
バカにされるのがキライな風潮。開放よりも鬱屈を選ぶ傾向。
手間隙惜しまず、無意味なことに情熱を注げるか。日本人の資質。
なのに政治が悪いとか、よく言うわぁ。って、思う。
あははは。カドたつこと、書いちゃったワ。んん。話もズレてってるわね。
そうそう。アートとはそもそもメジャーになることとは限らない!という方向からも考えなくてはと、これも今さら青いけれど、思った。
創り手が追求する姿勢は、やっぱり「いいモノ」とは何か?がベースでなきゃあね。
作品をどれだけ経済に使えるかとアイディアできるのは、プロデューサーさんの役割り。
日本は。
この演劇の制作分野も弱いというか、内輪どまりになりやすい?というか。
これは学校行事の自主性、役割りの振り分けと経験あたりに原因がありそう。
――また、話がズレたわ。
ゆうべみた舞台はホントウに素晴らしかったのよ!
素晴らしいアートと触れられたのなら、それでいいじゃないの?かというと、
もっと多くの人に知ってほしい。触れてほしい。評価してほしい。
つまり「経済を動かせる芸術」になってほしいってことになる。
この作品、業界的にはメジャーだけれど、
日本の社会の中でも、もっとメジャーにならないかなあってことです。
とか言う以前に。
ミュージカル『ルドルフ』の舞台が、すごい出来になっている!って、
ね、どっかで聞いた? ニュースになった? わたしの耳に届いてなかっただけ?
演劇関係者だと自認するみなさん、ご存知でしたか?
まず、そういうことなんです。