あとりえあげん

世田谷区三軒茶屋で隠居してます。ときどき劇作家。 HPはコチラ http://agen.web.fc2.com/

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判断力?

最近のTVドラマで気になったコト。

ひとつは、
視聴率だけでドラマの出来を評価し、では何故不調かと分析するネット記事。
「数字」でしかドラマの良し悪しの分析ができないってトコが気に入りません。
だいたい、予約録画の時代に視聴率に振り回される意味は何?と思う。(CMの効用って意味なら、NHKを語るのは意味不明だ)

もうひとつ。
この春、なんとなく新作ドラマの初回をいくつか観ちゃったんだが。そろって人物描写の奇妙な「記号化」が目立ってた。
リズムがいいので、なんとなくノセられて楽しんでしまうけどね。 

けどね。文化の記号化と、評価の数値化。コレがちょっと怖い。

 

なんてことを考えてる頃、
辺見庸さんの詩集『眼の海』の説明書?として読んだ『瓦礫の中から言葉を』の文中に、
ちょっと似た指摘が出てきて、

ホラね、わたしはこの方と似た部分に反応するんだワ、と思う。

 

この新書、3.11以降の言葉の空洞化と、表現者の課題について書かれています。
特にTVで、同調を強制する、耳に心地よい空虚な言葉が出回っていてる危惧、とか。

で。いつものようにわたしは、この方の言葉に共感しながらズレも感じるわけですが。
今回は、ズレ始める始点に気づけました。おおっ。

「膨大と無はよく似ている」という一文に引っかかったのです。
ニュアンスはわからなくもないのですが、
わたしの頭には無意識に「膨大な'情報'は、無ではない」と浮かび、
ネット上を恐ろしいスピードで流れていく膨大な情報を処理できる能力の鍛錬を、
する個人としない個人の差、みたいなものをイメージしました。
そりゃ「しないことを選んだ人」にとって、膨大な情報はのっぺりと意味をなさない=無、となる。

著者の言葉が間違っているというのではなくて、
モノゴトの真実とは、個人の感性・アンテナの張り方によって変わってしまうのだな、みたいなことです。
放射能についての知識とか、
『人間存在というものの根源的な無責任さ』という言葉に救われたというのは、生き残った被災者の多くが見当はずれの責任感に苦しめられている実態をご存知だったら、もう少し違って聴こえたはずなんだけれどな、とかね。
(たぶんご存知ではない気がしたのよ)

そうしてから一歩退いて眺めてみると、
文化人は死とか言葉についての意味を大仰に考えてしまうけれど、たとえば科学者から見れば単純な現象にすぎないのだろうな、とかね。

ほんの数十年前生きていた人の言動が、妙に爽やかなのは、
ネットのない時代の情報量では、情熱の行き場が狭く、その分果てしなく、という意味で無邪気に若く、青いからでは?と思うし。

 

記号化、数値化というのは、膨大な情報を処理するうえで、必要なことです。
あと、ログ(記録)化、も入るかな。
これからの時代を生き抜けるためのスキルとして、まぁ、苦手ならスルーするのも選択だろうけど、これはもう眼を逸らしてはいけない。
良し悪しはともかく、人間の進化のうちでしょうと考えるわけです。

うん。だからって人間は、それだけで出来ているわけじゃないということを、置いてきぼりにしないようにしないと、ね。
「わたし」の内面は、記号化、数値化できないものに限りなく近いし、最終的には好きか嫌いかレベルの判断で是非が決まるって気もする。

 

ところで、平等という言葉にすり替えて、記号化、数値化が顕著なんじゃない?と不安なのは、教育現場なんだよねえ。どうなのでしょう。