あとりえあげん

劇作家・ミュージカル関連のコミックエッセイスト・多摩美校友会理事 活動ベースは三軒茶屋ですが八ヶ岳の別荘で在宅介護はじめました☆

[ブログ版] 世田谷区三軒茶屋で隠居してます。ときどき劇作家。HPはコチラ http://agen.web.fc2.com/

誰のためか。@岩手

震災直後。
今では、みんな混乱してたから、と理解を示せるけれど、

あの頃は、垂れ流される、膨大で無責任な糾弾とか糾弾とか糾弾とか!に参ってしまい。
マジうざい。 と、父にこぼしたら、言われました。

そーいう人には、ではあなたは実際にはどんな行動をなさっているのですか?と静かに訊いてみなさい。 大声で騒ぐ人ほど、実はなんの行動もとっていないことが多いから。 たぶん黙るよ。

いや、さすがにそんな底意地の悪い行動には出られず。
あと、もうひとつ。
自分も基本、黙るほうのスタンスに流れた。 確かに、では自分はどんな行動をした?と自分に問えば、恥じることでもないが胸を張れるほどでもなかったので。

 

付け焼刃なメンタルケアの勉強もし、かなりの金額を支払ったわりには、実はこれもうーむうーむと偽善と疑問に悩まされることになるのだが(コレについては、また別に書きます)、

なかなかボランティアにも踏み切れず、

一方でボランティアしてない自分に焦りもし、

だが、ホンのチョットだけボランティア(とも言えまい。 楽しんじゃったもの)しただけで、
なんとなく落ち着いたというか、居直れた自分の浅ましさというか、と向き合い、

 

結論。
ボランティアは、自分の無力感を慰めるために、つまり自分の気を済ませるために、
「させていただくもの」ではないかと思いました。
他人さまのため、ではないです。 たぶん。 

と考えが至ったとき、
ありがとうとお礼を言われる方々に、
とんでもないと、こちらの頭はもっと深く下がるようになりました。

いや、本当に心底、向き合われている方も大勢いると思います。

日常の生活からが、他人のためにささげられているような人生を選んでいる方は、
きっと別です。
それは、真のボランティア。 ただ、少なくともわたしは違うな、ということで。

 

大震災があり、
自分も何かしなきゃ!どうにかしなきゃ!という義務感も、実際の行動も、
体制などに対して(口先だけで)糾弾し続けるのも、

自分の無力から目を逸らすための、自衛本能。 
自分の心のキズを癒すための、気休め。

 

東北の応援は(支援というナニサマな言い方はできないです)、
特別なことではなく、日常の延長として、
東京の、世田谷区の、隣人に対する礼儀とか応援とかと同じ感覚で、
捉えていければなあ、と思います。

たとえばエンターティンメントに従事する者は、
自分が、出逢った人々を励まし楽しませ驚かす人生を選んだ、そのままの感覚で、
東北とも向き合えばいいのかな、とか。

つまり、自分の隣人すらを大切にしていない人は、
偉そうに東北について語るなよ!ということになりますが。
そこまでカリカリすると、また憂鬱になるから、――無視。

 

 

よーこちゃんは、何度も被災地に足を運んだ方ですが、
宮城だかの被災地に行ったとき、
現地のおじいさんに「こんな何もないところに、よく来てくれたなぁ」と感謝され、うっかりと
「何もなくないですよ、空気もおいしいし」と答え、
「んん。 その空気も汚れちまったがなぁ」と、のほほんと返されたそうです。
よーこちゃんは言葉を失い、でも、おじいさんはにこにことされてて。

東北の方々は、尊敬に値するほど、強い、です。
この前リンクを張った、3枚セットの写真サイト、見た?

も一回、
http://blogs.sacbee.com/photos/2011/09/japan-marks-6-months-since-ear.html

直後の灰色なガレキの山々が、
人の手によって、キレイに整理、掃除され、
そのあとに鮮やかな緑が覆う、景色の数々。 
人の、自然の、甦りのステップ。 

わたしたちの方が、謙虚でいなくては。