あとりえあげん

劇作家・ミュージカル関連のコミックエッセイスト・多摩美校友会理事 活動ベースは三軒茶屋ですが八ヶ岳の別荘で在宅介護はじめました☆

[ブログ版] 世田谷区三軒茶屋で隠居してます。ときどき劇作家。HPはコチラ http://agen.web.fc2.com/

『オイディプス王』を観た

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浅草の新名所。 建設中のタワーと魂のオブジェ。 あの金色の下が劇場です。

2010.9.3. 14:00〜 アサヒスクエア / 山の手事情社

明日は10+1.5時間、飛行機に乗るのになぁと思いつつ。
だから旅行を挟んで時間を空けておいたのに、この劇団のお手伝いをしている鈴♪からメールが来て、通しを見たらかっこよかったよ、あげんさんにみてほしいの。なんて言われたら、
ええいガンバローと思うじゃない。

観にいった甲斐はあった♪
家に帰ってから熱中症(最近慢性化してるかも)なのか、ちょっと倒れましたが。
明日、大丈夫か、わたし!!!

 

誘っておきながら端の席でいい席を取れなくてごめんと、鈴がやたら気にしていて。 や、別に頼んだのがぎりぎりだったんだからと思っていたが、
なるほど、
背後の壁いっぱいにカーテンと人々の影が妖しくうごめき、実際の白い衣裳、黒い衣裳の肉体と薄くなめらかなカーテンとあいまって、
うっ、正面からみたら、数倍美しかったのかも。
でもね、最前列だから。
振り付けで倒れこんだ役者さんがはずみに照明器具をぶっ飛ばしたりして、大迫力。
(すぐに係員さんが飛んで来ました)
おもしろかったのが、肉体がごくごく目の前にありながら、あまり血肉や情念のかよう肉体に感じられなかったこと。 凄まじい重さを引きずった物質が無個性にデザインされて操られているって感。
肉体の訓練、お互いの息の合わせ方がすばらしい。
でもね、それでもね。 ひとりひとりの魅力に溢れている不思議。 打ち消せない肉体。 

主宰・演出さんが、前説。 オイディプスのあらすじを語る。
語っちゃうんだ、全部。 オチまで。
この舞台で描きたいのは「芝居」ではなく、オイディプスのテキストをモチーフとした「何か」だということを明確にしたかったのだと思うけど。

舞台は、舞踏をベースにしたコンテンポラリーとギリシア悲劇を組みあわせてイメージすれば、はずしません。
もっとも、『オイディプス』の言葉や筋立ての持つすごさは、どんなに壊して無機質に演出しても、きちんと向き合って音を発していれば、きっちりとドラマが立ち上がってくること。
息を呑む。
この言葉の強さは、ほんとにもう、なんなのだろうね。

そして。
今回の解釈のおもしろさのひとつは、暴力性をピックアップしたことだと思う。
(普通は、善意の食い違いの末の運命の悲劇と描かれることが多い)
たとえば、オイディプスが道の譲り合いで癇癪を起こしたとき、暴力を振るわなければ悲劇は起こらなかったはずだと、視覚の訴えがある、とかね。

もうひとつは、真実を冷酷に暴きたてることの、意味。 良し悪し。
どこかで見て見ぬ振りに流しておけば、悲劇は起こらなかったのに、みたいな。
でもやっぱり、真実を突き抜けて、人はその向こうに行かなければいけないのかな、とか。

観ている間、ずっと考えたのは、オイデイプスを女性が演じる意味。
前半、言葉が意味や肉体を伴わず、
これはただの意図なのか、それとも女が発するとオイディプスというオトコの台詞はむなしく意味を持たないのか、とか。
だがやがて、言葉と肉体がリンクし始めて、これはオトコではなく人間の発する言葉に変化したのだろうか、とか。
「眼」を潰すシーンのあと、照明は暗く落ち、台詞は書き直された女の言葉になり、
オイディプスの世界が現代を生きる人々の生き様にオーバーラップし始める。

思わせるものはなにも存在していないにも係わらず、ぬける青空をイメージさせるような、
終幕の詩情と冷酷と希望が漂う、見事さ。

 

5日まで。 時間があったら観てきてね。
そのあとは二本立て公演のもうひとつの演目で『タイタス・アンドロニカス』。 わたしは帰国翌日のマチネを見ます。
(で、ソワレはちょーふの芝居で、その次の日は帝劇でマチネwww)
大丈夫か、わたし!!!