あとりえあげん

劇作家・ミュージカル関連のコミックエッセイスト・多摩美校友会理事 活動ベースは三軒茶屋ですが八ヶ岳の別荘で在宅介護はじめました☆

[ブログ版] 世田谷区三軒茶屋で隠居してます。ときどき劇作家。HPはコチラ http://agen.web.fc2.com/

ライターの管理?

昨日のニュースで、
子どもが簡易ライターをいじって失火する事故が立て続けに起きたので、ライターの着火デザインを変える法を設定すべし、みたいな。
決まればいわれたとおりにいたしますからスタンスの、ふてくされてみえる、喫煙具協会(世の嫌煙運動の結果、とても斜陽産業です)代表とか、
マイク向けられ、「変えるのが当然じゃないですか」的な、鼻の穴をふくらませた、いかにも消費者代表のおばさまとか。

待て。 その前に、

子どもの前に、子どもしかいない空間に、
ライターを放置している親の管理能力は問われないのか? という不思議を感じる。

この場合、過失者が被害者(の親)だから。 矢印は向けづらいのは、そりゃあね。 でもね。

ちなみに、
社会的に簡易ライターはすでに、オマケであって商品ではない。
その性能に、過剰を求めていないか?とも。

 

今日のニュースで、
小学校の天窓から、子どもが落ちて大怪我をして。

まあ、学校側の落ち度は免れないけれど。
子どもには判断力があるわけないのだから、という前提で、あるべきなんだけれど。

ここを踏み外すのはヤバイという判断力を、子どもが感覚として持っていないということには、無関心でいいのか?とか。
(つまり、からだを使って遊ぶということを知らな過ぎる)

 

飲酒運転のときみたいに、
ルールにしないとみんな守らないんだから、厳しいルールを決めておこうよ的な。 (結果、あれは正しかったと思うけれど)
ルールにしたんだから、あとは守れよ。 なんで守れないんだよ、みたいな。 矢印のむけ方。 ルールをつくる=解決、か?

自分で判断する機会を奪われることに不安はないのかな。
自分の責任を回避できるから、ウレシイのかな。
そりゃ、ルールにしちゃえば、「いいじゃん、こんくらい」という人に、「絶対にダメです、ルールですから」と、断言しやすいから便利だが。

 

 

もうひとつ、数日前のニュースネタ。
明治大学の入学式を例にして、最近の大学の入学式では、多数の家族が参列したがりすぎ、収容できなくて、武道館で2回に分けて行われたという。
(弟の勤める学部では手続き率がよくて今年は新入生が多いという。 収容できない原因・遠因は別にもあるかもしれないわけだ)
で、ネット上ではみなさんが、まんまとマスコミに同調して、近頃の親は学生は、親離れ子離れが、と嘆いてみせてるわけだけれど。

疑問を持て、疑問を。 マスコミとか世論とかに。
報道すらが視聴率のために、どれだけエゲツない演出をかけてるか、ちゃんと見破れ。
(ここであげている3つのニュースの演出が特にひどいという意味ではありません)

わたしは多摩美で、親は来ませんでした。
弟は東大で、これは母が行きたがった。 そりゃあな。 学校側から2名まで可だと通達があり、わたしがついて行った。 つまり制限をかけないと、どんだけの家族が参加したがるか収拾がつかないだろうって判断。 あ、「近頃の風潮」ではありませんからね。 大昔の出来事です。

子ども(基本未成年で出資は親)の快挙を祝う気持ち、甘やかしですか?

これがね、入社式だったら、そりゃわたしも問題視しますけどね。
(数年後にはありそうで、怖いな)

 

念のために書いておくけど、
わたしが書いた↑内容↑に、「うん、そうだよね」と簡単に同調するのではなく、
「そうかな。 自分はこー思うよ」と反論を持っておくれね。

言いたいのは、そういうことです。