あとりえあげん

劇作家・ミュージカル関連のコミックエッセイスト・多摩美校友会理事 活動ベースは三軒茶屋ですが八ヶ岳の別荘で在宅介護はじめました☆

[ブログ版] 世田谷区三軒茶屋で隠居してます。ときどき劇作家。HPはコチラ http://agen.web.fc2.com/

「ラ・マンチャの男」を観た

前の晩にふと検索すると、信じられないくらいいい席がぽんとひとつだけ残っている。
そのまま押さえた。 前から10番目のセンターブロック。 便利な時代だ。

この作品は10数年前に、青山劇場の当日券で観ている。
当日券なのに何故か、完全にどセンターの最前列! 0番の前。
(ハーモニーのズレにずっこけたら、幸四郎さんにちらとチェックされてしまったような)
鮮やかな印象の舞台だった。

で。

…………えーとぉ。

この間、ちょーふが過去に出ていた舞台の記録DVDを観ていて。
なんでこんな演出にするの? ああ、役者さんのスキルの差を目立たなくするためだね、ナンテことを学んだ直後のせいか。
あ……。
これも、か? ナンテ、思ったりして……。

                         2008/4/19 17・00〜 帝国劇場

だって、10数年前に観た鮮やかなシーンが、ことごとく印象薄く流されてしまって。
最後の最後のシーンだけが印象深くなるように、組まれているとしか思えない、演出。
うん、そうやって観客に狙った印象(満足感)を植えつけるのも、演出家の手腕のうちか。

もっと言えば、カーテンコールで幸四郎さんが歌われた1曲が、全編の中で一番ドラマティックであったというのもいかがなものか、と。
ドラマの中でショーストップさせることを嫌がっているのはわかるけれど。 
歌いだしが台詞から続くように、デリケートなもっていき方をされていたのもわかるけれど。

わくわくしていられたのは、オーバーチュアだけで。 (これはわくわく♡)
あれ? あれ? え、え、え、え? ? ? と、とっかかりもなく流れていく。
ミュージカルって何なんだっけ?と、改めて考えたりして。

幸四郎さんの台詞術って、そうだからなあと。
台詞を訊かせようナンテいうよりか、台詞は役者が存在するためのきっかけにすぎないんダって感じか。
存在感はさすがにすごくて。 夜の中庭(って設定でいいのか?)を行きつ戻りつひとり歩いているシーンでは、ただぼそぼそとしゃべりながら歩いているだけなのに、何もない空間に異国の夜の風が香りたつ。 自然の中に灯される、やさしいかれの狂気。

床屋さんのエピソードはね、軽妙な笑いのスケッチというより、「日常」が見立てひとつで「崇高」に変換されてしまうというテーマに繋がる大きな場面だと思うんだけれどなぁ。
アンドルサはね、
絶望の日常の中で騎士の戯言に乗せられウッカリ小さな良心を灯した結果、男たちに踏みにじられてずたずたになり、それでも自分の中の光に気付いて、心強く生きていけることを見出すって存在だと思うんだけれどね。
役者さんのその場で感じる存在感が優先されちゃうと、せっかくのストーリィの構成が流されてしまうんじゃない?と思う。 
最近は否定的な傾向が強いけれど、構成のための表現も、ある程度必要なんじゃないのかなあ。

 

もうひとつの出会いは、隣の席のおばさま。
げ? あのシーンは無反応なのに、こんなシーンにそう反応すんですかぁ?と。
ええええええ?
…………。
芝居は観客のためにあるのだけれど、
観客のウケのためだけにヤってはいけないと、固く思う。
たとえその方が、どんなにチケットを動かしてくださったとしても。
(いや、チケットを動かしてくださるのなら、それはやはりすごく大切にしなければいけないお客様なのだけれど)