あとりえあげん

劇作家・ミュージカル関連のコミックエッセイスト・多摩美校友会理事 活動ベースは三軒茶屋ですが八ヶ岳の別荘で在宅介護はじめました☆

[ブログ版] 世田谷区三軒茶屋で隠居してます。ときどき劇作家。HPはコチラ http://agen.web.fc2.com/

「お願い、グロリア!」を観た

          2008/3/28 19・00〜 横浜赤レンガ倉庫1号館 /輝く未来

もしかしたらキムさんというのは、究極の『M』であらせられるのかな、とか。
(『M』というのは、モーツァルトでもマリーAでもありません。 念のため)

つまり、
他人から追い詰められて、自分を否定され、無理と不自由を強いられて、その中でもがき苦しんだあげくに、ただただ言いなりになるという突き抜けた快感を得るために。
究極の自己否定の中で、自分の肉体や想いという重さを脱ぎ捨てるという、無垢で甘美な雫を味わうために。
そしてその設定に、自分を投げ込むために!
この方は奔走し、若者を育て、大勢のスタッフを動かしてるんじゃないの?とか。
手間と(他人の)お金をかけて。

ずいぶんやっかいな人間関係のあり方/自己の愛で方をするんですネ……。
でもそれができてしまうのだから、過去の実績ゆえということも含めて、スゴイ。

となると、
「輝く未来」のメンバーたちは、キムさんに利用されたわけ?ということになるかもしれないけれど、
そこはホラ、
僕を踏み台にして羽ばたいてもらえればいいと、キムさんはちゃんと先手を打っている。
  ^_^)b  

一方で、
この「若い人たちを選んで、育てて、一緒に作品を創る」という1年がかりのプロジェクトそのものが、キムさんのダンス作品だったのか?とか。(タイトルは「輝く未来」)

コンテンポラリーという分野がルールやパターンの否定や開放を目的とする(のかな?)のなら、
限られた時間や空間を切取ったものだけが舞台ではなく、
境界を曖昧にぼかしにぼかして、

生きていた時間そのものを、
そこにこれは人々に提出する作品なんだという意志があって、
提出されたものを受け取る人々がいれば、
それは作品かもね、と。

そう気付くと、メンバーたちの振り付けも(青かったり甘かったりもするけれど、美味だった)、鍛錬されて創られた肉体も、
キムさんの手のひらの上で丁寧に磨かれた宝石に見えてくる……。
うん、これも、キムさんの作品。 愛しい。

 

やっかいなことに、
今までのわたしは言葉と直結してすべてを感じ取っていたのに、
ここにきて、
空気や肉体を通して宇宙の神秘を感じ取るという体質になってきたらしく、
不慣れな翻訳機能が脳内でガタガタいっている。

の替わりに、
たとえばキムさんの指の表情が、具象的に見えるようになって。 (感覚の再生が上手だったんだ!)
あとさ、あれはなんだったんだろう。 
場内の空気がストっと、切り落とされた瞬間があったでしょう。
世界が突然、クリアに透き通った一瞬。 
それとも感じたのはわたしだけ? あのとき、タクトを振っていたのはキムさんだった。
わたしはチョット震えた。
 

でね、
今回、どうなのかな?と思ったのが、既成の音楽を使うということでした。

ダンサーが自分や相方との肉体との会話を楽しんでいると、
(そうなの。 ダンスって結局「行為」なんだよな、と思ったの。 以前、レイプ!されて腰抜かしたこともあったし。 笑笑っ)
えーと、
ダンサーが自分や相方との肉体との会話を楽しんでいると、
せっかくの緊張と、他人様が別の場所で作った音楽とのズレを、感じました。

抽象的な音(あの、ぐちゅぐちゅした効果音は実にエロッチだった!)とか。
既成の音楽に音を被せて半壊させたのとかは、おもしろかったし。
でも一番は、
ダンサー自身がたてる物音や呼吸音だけ、
あれは計算なのか?というように、海の近くゆえ船の汽笛が響いたり。
と、静寂。

肉体の奥に眠る、血液の巡る流れ。 太古の自然。 リズム。 

まあ、ときどき既成の音楽を混じらせることで、メリハリが出てくるのかな。
ナマ楽器ひとつ、いれられればいいのかな。
わたしは2列目で観ていたからそう感じるのであって、
会場の後方に座っていたら、無音は耐えられないのかもしれないし。
(間にいる観客の数だけ舞台の緊張感を薄められる……?)

 

あ、
ぶみさんとケイちゃんに、一度キムさんのダンスを観てほしいナと思ったんだよ。
わたしの周りで、肉体との会話を理解してそうなのは、このふたりってコトなのかな?