あとりえあげん

劇作家・ミュージカル関連のコミックエッセイスト・多摩美校友会理事 活動ベースは三軒茶屋ですが八ヶ岳の別荘で在宅介護はじめました☆

[ブログ版] 世田谷区三軒茶屋で隠居してます。ときどき劇作家。HPはコチラ http://agen.web.fc2.com/

送る

今日は、うららかな日差しで
いいお葬式でした。 亡くなった方の徳、なのでしょうか。
わからないけれど。
お葬式って、その方の人生が雰囲気として表れる気が、します。

友人のおかあさまに、お会いしたことはなかったのですが、
読経のときの祭壇に、いらしたような気がして。
霊となられてすべてを受け入れ、微笑んでいらっしゃるような。
そうか、菩薩になるというのはこういうこと?などと考えて。
でも
わたしに感じられたのは、母としての想いや心配や慈愛で。 少しまぶたが熱くなる。

送る形式は神式と仏式では違うけれど、通じるものはあるなぁと。
いや、
違う部分もあるんだけれど。
仏教ではどう考えるの?という疑問がいくつか湧いてきて、あああ、勉強しなければイケナイことは、まだまだいっぱいあります。

今日の式では、信者さんたちがお坊さまと一緒に経典を唱えていらして。
友人の声にのせて送る、というのはいいなぁと。
聴きながら、信者さんたちが一心に経典を声にする、という意味も考えて。 (トランスの効用と、息という体力など)
それから、神式の祝詞の響きを思い出して。
日本人の歌、は、この辺の調べがベースとしてあるかも。
西洋音楽や唱歌にはない精神性、土着性。 メロディではなく、言葉の響きとリズム。

ぼんやりと聴いている内容から、もしかしたら仏教もキリスト経みたいな契約性があるのかな?とか。
(この辺は勉強しないと、発言できないンだけれど)
経を唱えるから、信心するから、お布施するから、地獄には落とさないでください、って?
死ぬということは、もう少し霊的な一体感だという感触があるわたしには、少し不思議。
ただ、
お灯明を見ていると、
「闇の中の一筋の灯り信仰」みたいなものが感じられ、これが救いに通じるのかな、など。

それにしても。
喪服はきっちりと、今週で仕舞わないと、ねえ。