信仰を持っているわけじゃないけれど。
霊的な気配、というものは、感じて生きている。
「オーラの泉」という番組も、見る。 ときどきウサンくさくて笑ってしまうが、いいたいコトはわかる。
この霊的な気配に
大いなる意思があるとか、
だから契約ができるはずだとか、
支配をするとかされるとか……は思えない。 全然。
この霊的な気配に、
世間で描かれているような概念が当てはまるとも、思えない。
いろんな呼び方があるけれど。
……だいたい、霊的な気配って言い方で、いいのか?
他の人に信じろとも言えない。
ただ、自分が感じるから否定しない、だけだ。
予知夢とか透視とかと同じだね。
出雲大社に行ったとき、公園みたいで他の神社みたいに神様の存在を感じないとボヤいたら、父がそりゃあ8月だものな、と言った。 そうか。
だからいつか、10月の出雲に行ってみたいと思っている。
イギリスのウィンダミア/湖沼地方に行ったとき。
うまくいえないけれどね、妖精っているかもしれないと思った。 そんな空気だった。 日本とは違う存在。
なんていうのかな、
自分は「他によって生かされてる」モノに過ぎないなと思える。
なんてことのない存在に過ぎないな、と。
だからまっすぐに立ち、見上げる姿勢で。
どんなときも周囲に微笑んでいられる自分でいたい、と。
ああ、
もっと具体的なことを言うとね。
昨日、
会社の帰り際、営業moriが電話を保留にしてryoちゃんに何か尋ねている。
どうした? 大量加工が振られてきたけれど、うちで消化できるかな?
消化? しようよ。
moriは、昨日の今日でアンタがそう言う?ってな表情で、電話口にイエスと伝える。
そりゃ、わたしは体調が思わしくなくて、今日も6時半で帰ろうとしてますけれどね。
moriもryoちゃんも不安げだ。 やりたいけれど、その数字、できるか? あたまの中でいろいろとシュミレーションしている様子。
大丈夫だよ。
神様ができると思ったらその仕事はくるし、できないと思ったらぽしゃるから。
ふたりがぱあっと笑った。
いかに生きるかの方便で有効ならば、
神様だって捨てたもんじゃない。
そしてわたしは、
信仰を持っているわけじゃないけれど。
霊的な気配、というものは、感じて生きている。