引きずられるように書き上げてから、数日の時間がたって、少し冷静な気持ちに。
先日、役者さんと劇作家はモチーフを見る角度が全然違うとわかり、自分がこだわっている部分を整理しておきたくなった。
まず、昨日気付いた点。
観客と同じ視座となるキャラがいなかったことは、この話のトッツキを悪くさせているのでは?と思いはじめる。 そうでなくても、変な世界なのに。
(と、反省をメモったところで、自分(+1)以外の読んでない人にはわからない、か)
でも、じゃあ、どれをどーする?と考えはじめると、やっぱりいらないのか?とも思う。
迷いは続く……。
これはわたしが、もともとコミックという大衆文化と向き合っていたからのこだわりかもしれないが、「すごくわかりやすい」表現を意識していたい気持ちがある。 たぶん、演劇人の間でこんなこと言うと馬鹿にされそうだよね。
何しろわたしが書きたいモチーフそのものが、他人には「わかりにくい」。 しかもそれを幻想的に描きたいから、人によっては「とっつきにくい」。
まんが家をしていたとき、母や友人からよく指摘されたのは「その部分を描きたい気持ちはわかるけれど、読者はもっと単純・馬鹿だから、無駄。 読んでもらえないだけ。 でもそれじゃあ、意味ない」
古事記の最初の部分をアレンジして、親子の距離感についてを書こうとしてみるつもりだったけれど、実際に書き始めると、違う部分が浮かんできた。
わたしの場合、これは「自然ななりゆき」として軌道修正はしない。
物語は、花見を祝いの場として、兄妹神の神(子)づくりから始まる。 父親・凪(イザナギ)が、不完全なからだで生まれた水泡(ヒルコ)を川に流して、なかったこととしたために、めぐりめぐって(この因果律がまだ弱い!)、島は焼け野原となり、最後に凪は決着をつける。
書きながら、自分の中にぼんやりとある「日本人の本質」と向き合い、受け入れる?という感覚がある。
人々が平和に暮らすために、あったこともなかったこととする日本人。 マイノリティに「負」を負わせて大勢は知らん振り。 その部分を責めあげることは簡単だけれど、じゃあどうすれば、その決着はつく?
そうなってくると、象徴的な日本のモチーフが、あちこちに織り込まれていく。
桜とか、日の丸とか、四季とか、仮面……とか。 舞いに、祝詞。
たぶん、世界観はできたと思う。 次は、それをどうメリハリづけて描くか……。