あとりえあげん

劇作家・ミュージカル関連のコミックエッセイスト・多摩美校友会理事 活動ベースは三軒茶屋ですが八ヶ岳の別荘で在宅介護はじめました☆

[ブログ版] 世田谷区三軒茶屋で隠居してます。ときどき劇作家。HPはコチラ http://agen.web.fc2.com/

アマチュア主義

美大に入った頃(18歳)からか、絶対になりたくないものが 芸術家/アーティスト だった。

では何になりたかったか? プロのクリエーター/職人 (そして人間としても、プロに)を目指そうと思った。

この言葉の選び方は、わたしの価値観から説明しなければ、きっとわけがわかりませんよね。たとえば、TVで若いレポーターが職人の技に感心して、「これはもう、芸術ですね」とコメントする。わたしは馬鹿いってんじゃねえよ、とつぶやく。なんて失礼なんだろう、と。言葉の意味を考えたこともないのに、簡単に使ってるんじゃないよ。職人芸とお芸術は両極でしょうよ。……。

だいたい日本人は「お芸術コンプレックス」なのだ。自分にはわからないものと諦め、難解だからこそ価値があると崇めているとでもいうか。自分の価値判断に自信がないから、揺るがない価値観に弱い。有識者が褒めるのを確認してから、初めて自分も褒める。(日本屈指の演劇評論家も、結構そうだったりする。マジ) 逆に、わかりやすいものを軽んじたりする傾向もある。(いいことに、これは最近、減る傾向) まあ、「え、王様のステキなお衣装が見えないんですか? (from  『裸の王様』)」と、ケムに巻くことで、芸術家の立場を守ったりスポンサーを獲得したりしなきゃいけない時代が、過去にあったのかもしれないが。……あ、今でもやっているか。

わたしが考える芸術家とは、究極のアマチュアを指す。アマチュアは仕事に責任を持たない。豪華一点主義。締め切りなんかないし、好きなことを好きなだけ、死に物狂いに極められる。だからこそ至上を目指せるし、他人の迷惑も関係ない。経済にも無関心。

職人は、締め切り厳守の中で限界を尽くす。一定のレベルのものを一定の間隔で生産でき、相手にも自分にも責任を持つ。コスト計算ができて、仕事に感情を持ち込まない。

これはわたしの大学での専攻が、グラフィックデザインであったことも原因するのか。いや、絶対にファインアートの学部は選ばないと思った高校生の時点で、すでに選択は始まっている。広告代理店を落ちまくり、やっぱり目指すのは、まんが家か?となった時点でも、だから目指すスタンスは「職人」。これがいいことだったのか、マイナスだったのかはわからない。わたしはその後10年かけて、描きたいものを見失い、技術を枯らした。

ようやくまた、「描こう」と思ったとき、選んだ表現は「劇作」だった。ふたつのレクチャーに学んだ。それぞれのいい点と困った点はまたいつか語るとして。ここ2ヶ月、わたしを悩ましているのは、自分はプロの劇作家になりたいのか?ということなのである。

そりゃあ、色気はなくはない。(二重否定文を使うなと友人は言うが、ニュアンスを汲んでね)自分の作ったものを究極の形に追求していくには、紙の上の文章を舞台で役者に演じてもらい、技術スタッフに効果を出してもらい、上演を契約・運営し、観客を動員して、そうしてかかわった人たち皆に感動してもらうことを目指さなければいけない。そりゃあ、そうなったらどんなにスゴイことだろう。だが、これを実現しようとするには、プロの劇作家になって他人の金を動かせるようにならなくてはならない。

でも、ね。

わたしは今、満足できて大好きで大切な職業・職場を持っている。これがまず、迷う理由のひとつ。社会的な肩書き・立場、生活経済は充分あり、何よりも必要とされている。

そして、作業そのものをとっても、締め切りも他人の評価も関係なく、心ゆくまで、書くことを追求してみたいかもという気分も、理由のひとつ。追われて、振り回されて書くのではなく、自分と深く会話をしてまず1本、作品を書く。まずはそこからでしょうが、という……。

だから今まで背を向けてきたアマチュアとして創作するスタンス、しばし楽しもうかな、という考えに傾きかけている。……これは「逃げ」か? 「あきらめ」か?

(なんて、舌の根も乾かぬうちに、また何を決心するか、自分でもわからないンですけれど)