あとりえあげん

劇作家・ミュージカル関連のコミックエッセイスト・多摩美校友会理事 活動ベースは三軒茶屋ですが八ヶ岳の別荘で在宅介護はじめました☆

[ブログ版] 世田谷区三軒茶屋で隠居してます。ときどき劇作家。HPはコチラ http://agen.web.fc2.com/

死にかけた話 1

 

突然の大病をしました。

 

山梨の別荘で父のワンオペ介護の日々からの、降ってわいた怒涛の日々でした。

自身の入院、手術もワンオペレーション。

父を馴染みのホームに預け、弟は東京在住だし、まあでも、世の中はなんとかなるようにできていました。

 

珍しい体験を書き留めておく。というより、こんなにこんなに頑張ったわたしを知っておいて! 褒めて! という気持ちが大きいです。えらかったぞ、わたし。(その前にもっと養生しとけよという怠慢は……棚に上げてw)

 

そして大勢の方々に、いろんな形で助けられました。ありがとうございます。

 

     +     +     +

 

病院ベッドの浅い眠りの縁でつらつらと考えていたことは、

女のからだは生理であちこち痛かったり血が流れたりがずっと当たり前すぎて、あとわたしはバブルな青春期だったのですが、神経性の胃腸炎とかをいなしながら仕事をこなすのが勲章みたいな風潮もあり、

「痛み」という信号に無関心というか、目先をやり過ごせればOKな傾向があったかもしれないということでした。

 

からだが冷えたり疲れたりすると胃炎を起こす、のは通常モード。おなかのものを吐いて、温め、太田胃散とたくさんのぬるま湯をのんで、寝る。

これがわたしには「あ、またか」という日常なのです。

 

それでも一人暮らしのときは、もう少し、健康に気を付けていなくはなかった(遠回しな言い方だなw)のですが、2年前から山梨の別荘で父の世話を始めてからは、自分のストレスをなだめるのが最優先事項。それはだらだらな食生活etc.でしたので、もう完全にアウト!だったのでしょう。

 

     +     +     +

 

こういう言い方をすると弟は怒るでしょうが、今回のはじまりは弟の返信メールからでした。思い返し、たどっていくとそうなんだから仕方ない。でもおかげで、もっと大変なことになる前に済んだのだから、ありがとうと言うべきなのかしら。

 

父の介護で、ワンオペでは手が回りかねる事態となり、弟に打診のメールをし、返信をもらいました。(あ、その事態そのものはすぐにどうにかなりました)

弟は数学者なのですが、

そのせいか悪気なくそれはそれはそっけない文章を書きます。

ふだんはそんなもの、で済むのですが、このときは、その不愉快さにムカムカし、2年間のワンオペ介護を続けてきたわたしの中で何かが折れました。そして一週間ほど、軽いうつ状態になりました。

やらねばなららない最低限の家事・介護しかできず、それをするためには立ったり座ったりしばしウロウロするとか、アイスクリームやチョコレートを口に含みながら動作するとか。

でもまあ、

自分の中で折り合いをつけ、心身がどうにか通常モードに戻ったあたりでも、ときどき胃がムカムカするのだけは取れませんでした。

基本、元気でしたよ。

数日がかりで、長年の案件だった玄関横のモミジの4本の幹を、ノコギリ一本で4分の1の高さに切り詰めたりしてましたから。

 

ある日、朝ごはんを食べたあとから胃のムカムカが始まり、横になってやり過ごしてましたが、父の訪問看護師さんがいらしたあたりで我慢できなくなり、父の世話をしてくださってるかの女に「気にしないでくださいね」と断って、トイレで吐きました。このときはね、一度吐いてぬるま湯のんだら治まりました。

ただ、このせいで父の訪問介護チームの重要案件として、わたしの体調が上がってきたようです。

 

その1週間後ぐらいに、再びムカムカが始まり、これはなかなか治まりませんでした。あれ、ヤバイ? こんなに吐いてばかりで、胃酸が大量に暴れてると、胃潰瘍かなんかになっちゃう? 素人判断ヤバイ?

 

で、訪問医の先生がいらしたとき、相談がありますと言い終わらないうちに「病院でキッチリ検査してきなさい」と命が下りました。

はい。……どの病院がいいでしょうか。

そうね。消化器内科の検査は、あっちよりこっちかなあ。と教えていただいた病院に、わたしは今、います。

別荘のある山梨から越境して長野の病院。諏訪神社の木落としでなじんだ地名。保険証は世田谷区なんだから、まあどっちでも一緒かなと思ったのを覚えています。

 

 

(つづく)

 

 

 

ミュージカルについて 7

今までいくつかのお稽古場に居合わせてきましたが、お手伝いや見学時のわたしの基本的な姿勢は「感想を言わない」です。あ、初日が開いたら言う。あえて言わないときもあるけど。

そのときの役者に言うべき言葉の優先順位ってあるから。

たとえば大作のゲネだったら、どんなにツッコミたいことがあっても、超笑顔の「信じてそのまま突っ走れ!」以外は伝えない。

 

で。稽古場での演出家は、役者が思っている以上に緻密な計算をしています。それを崩すのが嫌なの。なので、感想を求められると、「演出家と話して」と応えます。

笑うかもしれないけど、

どんなに注意していても、挨拶ついでにたたいた軽口のせいで、その日の芝居の質が変わっちゃうナンテことが起こるのですよw それが役者のからだです。

 

 

それでも例外があって、

今の芝居は演出家がひと言抑えておいたほうが後々いいはずなのに、あれ?スルー?みたいなとき。役者は山のように課題を抱えているのだから、そこはとりあえずキープして他を優先しようか、みたいな指摘と言えばいいかなあ。

時間的に稽古が押し迫ったりしてると、それくらいは、こっそり、言うときもある。

 

 

 

「今のよかったね。いい芝居になり始めてた。〇〇の哀しみに引き込まれたよ」

「え。あれは失敗でした。ほんとに泣いちゃったから」

「ん? その役として、ほんとに泣いたら、失敗なの?」

「わたしは研究所でそう習いました」

「あー。いやいや、それが意味するのは別のことで」

「でもわたしは。そう習ったんです」

「そっか」

(これ以上はもう、わたしの出番ではない)

 

由緒ある研究所の信念、の弊害。言葉だけが独り歩きし、真の意味が失われてる。

こういうケース、わりとあります。某劇団。某BOX。

 

 

ちなみに、「泣くシーンで泣いてはいけない」本来の理由はわかりますか?

 

もっとも、日本の観客は、もっと言えば関連会社の営業・広報レベルの人たちですら、舞台でマジ泣きしている役者を、大熱演しているのを目撃した!と感動するのが好きだからな。

そのアンチテーゼもあるな。

「熱演ってのは役者に対してとても失礼な物言いだってわかって使ってる?」と怒ったことあるんだけど、ハイハイ言われながら伝わってないなあ思った。

 

 

ジロドゥの言葉だったかな。「少女が少女を演じるのは事実であって演劇的な真実ではない。少女でない者が演じたとき、そこには少女という真実が宿る」

舞台で芝居をする本質はここにあります。

 

演劇で伝えたいのは、「泣く」動作のすごさではなく、その人の中にある、本質・真実。

 

つまり、

役者が涙を流せたことに自己満足してしまうと、必要な哀しみが客席に浸透しないという意味で使われます。

実際に涙したから正しい正しくないという意味ではありません。

(それともBOX的な作品だと弊害になるのか?)

 

 

演劇的な目的は、

役の持つ哀しみに客席がどれだけ共感、引き込まれて、次のシーンにつながるか。です。

わーあの人、嘘なのにマジ涙流してたぁ!すごーい!ではないのです。

 

 

 

さて。

 

 

 

今年2月。わたしが観た回の『笑う男』で。

娘を想い泣き崩れるウルシュスの台詞がぐちゃぐちゃにつぶれ、わたしはとても新鮮な気持ちになりました。

祐一郎さんは、真珠のネックレスの如く一音一音を正確に発音する技術を叩き込まれた役者です。あれが事故だったのか計算だったのか、わからないけれどw

 

客席は、ウルシュスの哀しみを共有し、打ちひしがれ、続く悲劇を怖れています。

 

 

 

 

浅利さんがこれを見たら、どう言うかなあと考えました。

晩年の浅利さんは、悪名高い思い込みに縛られてましたから、激怒したでしょう。

 

でもわたしの知る浅利さんだったら、あれはあれでいいんだよとおっしゃる気がしました。

実際「千々に乱れる想いって芝居をどうすればいいのかズット考えてたけど、そのままでいいんだと結論した。千々に乱れているのだから」とおっしゃてたし。

 

ただ、これは台詞がはっきり聞こえなくても内容が察せられる状況だったから「可」なんだよな、が加わる気がする。

 

 

そして絶対に。

「祐一郎ってのは、ホントおっちょこちょいだから」 懐かしいね。

 

 

 

ミュージカルについて 6

続く、とか書いて8か月以上たっちゃいました。まあねえ。

で、その8か月前に書くつもりで書いてない分くらいは、今さらでも書いておこうかなと。

 

 

あ。前回、うりゃくんや辰巳くんのアイドル声の歌い方に抵抗があると書いてしまいましたが、

その後、でもうりゃくんは、たぶん武器として選んでる歌い方なんだよねえ、とか理解に努めてみたりして、

結論。

わたしは、「本心を隠してるように聞こえて、裏切られたような気持になる」のが気に食わないのだと思いました。そんで、つまり、うりゃくんや辰巳くんの歌だから、それがイヤなの。思い入れに左右されてるかもしれません。

 

 

 

 

さて。ついでなので、辰巳雄大くんの芝居の不思議なおもしろさについて書きたいと思います。

(ちなみにふぉ~ゆは箱推しです。4人とも大好きですからね!)

 

『ダブルトラブル』というふたりミュージカルで、福田くんと10役くらいを演じ分けたときのこと。めんどくさいというよりチョット癇に障る、癖ある脇役タイプのキャラクターたちを、辰巳くんが演ると、だんだんと、それはもう愛おしくなってくるのです。

終盤にかけて、あーこの時間が終わったら、かれに、かの女には、もう二度と会えないんだなあと、とても残念に思っている自分に気づき、

え、なに、この感情は???

 

「誰かが演じているキャラ」ではなく「キャラそのもの」がそこにいて(←これはめずらしくない)、そのどれもが、それぞれに、切ないほど魅力的。

会いたいのは、ずっと愛でたいのは、辰巳くんでも辰巳くんが演じる役でもなく「かれが造形したキャラ」なのですよ。

もうひとつのチームを配信でみたけれど、役そのものが特殊なわけではないようです。ふつうはそんな感じだよねえ、という役でした。

 

ええー? なんなんだ、辰巳くんのこの作り様は?

 

 

ちなみに福田くんのほうは正攻法というか、どれも芸達者な福ちゃんが達者に演じているなあというキャラたちで、ときに破綻する計算が面白い、という作り方でした。

あ。オールドタイプのミュージカルの振付が抜群に似合うなあと気づいたのはこの時だったかな。たぶんフォッシーとか踊るとステキなんじゃないかな。観たいな。というのが、ひそかな夢。

 

 

で、辰巳くんに話を戻すと、その前に観た『ショーボーイ』とその後に観た『ショーボーイ』で、同じことをしているのに説得力と華やかさがまるで違うという不思議な現象でした。

役の作り方をなにかしら自覚し、愚直に地道に意識とからだを育て、結晶したってことなのかなあ。

 

わからない。

 

以前、某インタビューで、人生や生活感を背負って、空気感をまとって、そこにいたいとおっしゃっていたけれど、

や、役者は誰もがそれ言うって。

それを言うけど、こんなに愛しいキャラにはならないし。

たぶんどっかが他とは違うのよ。

 

というわけで、ご本人以外の誰かに、これを解説してほしいです。

誰か手をあげて~www

 

 

 

そして。

なのでこれから『ダブルトラブル』演る人たち! わたしが観るときは、ハードル高くてごめん。と言っておきます。わははは。

ヘルヘルのチケットは取ったよ!

チームFのチケット、取れますように!! 取れるかなあ。(ここんとこ『ジェーン・エア』のチケがずっと取れないので、ちょっと弱気w)

 

 

さて。次は「泣く」芝居について書く予定です。

 

 

絶対正義への違和感

以下は個人的な雑感です。

 

[No War]に関して異論はないです。ただその絶対正義の向こう側に無関心でいてもいいのか?という問いです。

 

 

思えば2年くらい前に、仕事で真珠湾攻撃の裏付け資料にあたったとき「あれ?」と思ったところまで、つながるのかつながらないのか。

数十年前、日本は真珠湾攻撃をせざる得ないようアメリカから仕向けられた説があったはずなのだが、ネット上からはまったく拾えなかった。陸軍の暴走に海軍が押し切られた記述が主だったかな。ま、そういう解釈が今風なのね、とか思った。アメリカさんが不快な解釈はそりゃ消されるか、とか。

 

 

ウクライナ侵攻が始まって最初の違和感は、

ん? 地球上で今まで他に戦争はなかったっけ?というくらい圧倒的に盛り上がる[No War]で。ウクライナ、日本に世界にとってそんなに特別で親密な国だったの??

文化圏のグルーピングとか考えたけど、ぴんとこなかった。昏くて申し訳ない。 

 

違和感が「え?」になったのは、ウクライナの大統領がよれよれセーター?のまま公的の場で発言する映像で。うわ、被害者ヅラの演出、エグイわ。まあ、イメージ戦略も戦争のうちか。

 

錯綜するフェイクニュース。ロシアでの映像を、ウクライナの悲劇にしたてあげてるとかって?? 

え。国レベルでフェイクニュース、あり?

 

それでもしばらくは、

コロナで経済が破綻して、戦争に解決を持っていきたいのかなとか、考えてたのだけれど。ふむふむ、EUとのこともあるのか?とか。

 

その後、世界各国の、ロシア/プーチンの追い詰め方がまた、エグイでしょう? そういう逃げ道のない追い詰め方して、どこを落としどころにするのかしら。わからないわね。大丈夫なの? 中国あたりが仲立ちするの? できるの? 

 

 

もちろん、爆撃や移民や、「ウクライナがどんなひどいことになってるかキャンペーン」が嘘だとは思わないし、許せる状況ではない。遠慮のない盛り上がりに、日々、胸がキリキリする。

 

 

だけどさ。プーチンって、そんなに道理がわからない人だとは思わなかったんだけどなあ。老害だとしても、なんか、どうなんだろ?

 

 

そんなおり、友人のFBでこの記事を読んだ。

mainichi.jp

 

(有料記事は読んでないです)

 

 

で、この先は、わたしの中の飛躍なのだが、

 

侵攻したからの制裁ではなく、

ロシアを、プーチンを抹殺したいからの、

侵攻せざるえないように追い込んだ可能性は、ない?

 

これがね、真珠湾攻撃の前述の可能性の削除につながってたりする可能性は、あり? なし?

(口調が『真犯人フラグ』になっちゃったw)

 

 

ここまで考えてしまうと、もう、

一般市民に届く情報に、どんな操作が入っているか、わからない。

 

ウクライナがどんなひどいことになってるか」が、世界の半分のマジョリティ・キャンペーンとしか思えなくなる。

 

政府にも、マスコミにも、半信半疑で向き合わないと、と思ってしまう。

 

 

 

[No War]という絶対正義に踊らされるのは、まあ、気持ちいいよね、たぶん。

正義警察ってやつだ。

わたしはずっとなぜか違和感あって、どうして自分が違和感を持つのかわからなくて、考えて、

こんな考え方に行きついた。

これが正解だとは思っていない。10年後くらいにならなきゃ、わからないことだわ。

 

 

 

あとさ。

コロナ・ワクチンのアンチネタがSNSに流れるの、もしかして減った?

(過去、ミュートしてきたのが、急に効き始めたとか? まさか)

 

 

ミュージカルについて 5

芝居する身体が大きく三種類あるように思うと書きましたが、では演者も三種類のタイプに分類できるのかとなると、それはまた別です。

  

 

最近のわかりやすい例として。

『リトルプリンス』で芳雄さんは飛行士とキツネを演じられましたが、飛行士は②の身体の傾向、キツネは③の身体だったように感じられました。

人間と人外の演じ分けもあったのかしら。

(特にキツネに迷いがなくて、めっちゃ楽しかったです。床につく手は猫手だし、最後はタガー風のご挨拶してくださったし♪ あ。迷いながら探りながらの飛行士を演りながらだったから、余計に楽しめたのか?)

 

 

また。同じ役者さんでも、作品によって①だったり②だったりする方もいるので、こうなると演出家や共演者さんにもよるのかしら。

 

そうだわ、ある方はね、ある作品で、お稽古場では繊細な役作りをされてたのに、ゲネで関係者という観客を前にしたとたん、歌が変わってしまったの。無意識に、身体が期待に応えてしまったという感じだったわ。

もうひとつ、その方について言うと、芝居することにいろいろ迷ってらっしゃるよなぁとわたしには感じられるのですか、世の中的には、歌がとにかく上手だ流石だとしか評が出なくて、

観客も評論家も、もう少し人間としての役者としてのかの女を感じてあげられないのかなと思ったりします。

 

 

そうね。

わたしは、作品を味わうと同時に、もうひとつ別の次元で「人間」を観ている傾向があるのかもしれません。

 

――続けます。

 

 

こんな方もいました。

その作品では憎しみを込めた絶叫系の歌が多い役だったので、公演を重ねるごとにさすがに喉の負担が大きくなり、ある回で、大丈夫かな、次の音出せるかな、という瞬間、宝塚調の歌い方に切り替えられたのです。

喉の使う箇所が変わったのか、すっときれいな大音量の高音が出て、すごい、これには感動。

ただ残念なことに、その後、作品が変わっても、その方は宝塚調の歌い方しかなさらなくなってしまいました。

その場その場で身体が感じる、役としての想いを探りながらではなく、

お約束の様式美な歌い方。

となると、毎回、同じことの繰り返しとなるせいか、公演期間後半になると「役に飽きてる」様子も見えてきて…… 

(マジ つくづく いろいろと残念でした)

 

誤解のないように言いますが、宝塚卒の女優さんもいろいろなタイプがいらっしゃるので、上記はその方限定の出来事です。

 

 

うりゃケンくんや辰巳くんがミュージカルの中で、ときどきアイドル声で歌うのも、実はときどきうーんとなります。(ふぉ~ゆ~(箱推しです☆)がアイドルソング歌うのは、ギリ許せる。うーん、ギリだな。別の歌、聴いちゃってるしな)

ファンの方はどうなのかしら。聴きたいのかな。

 

 

 

などと実例をあげてみたのは、

もちろん、どう歌ってもその方の自由だけれど、ちゃんと認識して歌い分けましょうよ。観る側も、推しの一生懸命だけを応援/愛でるのではなく、演者としての奥深みを理解し、味わいましょうよ。

そうすると、いろんな理由が見えてきて、観劇がもう少し別な角度で楽しくなるのでは? 作品の説得力が変わるのでは?

と思うんだけどなあ。

 

 

つづく。

(で、具体的にそれはどなたですか?という質問は受け付けません!)