GW、八ヶ岳の家は、父を訪ねてくる方が多く。いろんな世代の方々(子ども)とお話する機会に恵まれました。
2歳児って、こんなに自意識あって、他人と会話できるもんだっけ。
うちにある自分より大きなゴリラや、同じくらいの黒ブタのぬいぐるみと全身で遊んだあとは、持参のタブレットを持ち出してきて。
恐竜のイラストがでてきたので、わたしがふと「トリケラトプスね」と言うと、次に出てきたときには「トリケラトプス!」と言えるのよ、ちゃんと! (パパのほうが「え。トリケ……何?」とか慌てるw)
うあーうあー。うっかり知ったかぶり、言えないわぁ。
でね。そのタブレットには、英語のページも入っているわけですよ。そうか、このコは日本語を覚えるのと並行して、英語も身につけていくのねえ。
となったら、ものごとの考え方の構築の仕方が、わたしたち世代とは当然、変わっていくよねえ。
この感触は、今に始まったことではなく。この10年ほどでネットが発達したスピードを考えると、
別のご家族の18歳のおにいちゃんに、「おとなたちの言うことに、や、そういうことじゃないんだよなぁって、ときどき思うでしょ」と振ってみると、大きくうなずかれるわけで。
(ちなみにかれの夢は、リアル宇宙飛行士だったりして、わー身近でそういう人初めてだわ~とテンションあがったっ!)
もう何年も、世の中では格差社会という言葉が振り回されていて。
昭和の貧乏(ほぼ、みんなが貧しかった)を記憶していると、えーと、その生活のどこが貧乏? という感触しかなく。雨に濡れず眠れ、継ぎあてのない服を着て、栄養失調でもないんだよね?
で、一部の社会学者の論文を振り回すことで、日本社会は何をごまかそうとしてんだ?みたいにしか、わたしには受け取れないわけだけれど。
保護者の精神・意識レベルの格差はあるかもなあと思う。
時間をかけて、リアルに視線をあわせて、穏やかに理論的に、子どもを観察しながら、向き合っているか否かという、格差。
だれもかれもが、理想的で余裕のある子育てができるわけではない。と言われそうだけれど。むしろ溢れる情報の中で、必要な情報をキャッチし・実践できるできない格差。その補修は、どこにあるのかな。とか、考える。
それ、経済の問題?
平成→令和の移り変わりのTV番組を見てて、すごく幸せを感じたのは、多くの「善男善女」がみんな穏やかに笑ってたことでした。
GWを家ですごすことを選ぶ、幸せ。ステキだと思うわ。
日本は、過去のいっときほど、金銭的には豊かでなくなってきたけど、置き去り気味だった心の豊かさを手に入れつつあるんじゃない? とか感じます。
そうして、精神・意識レベルの格差も、ゆっくりバランスとれていくのかもしれないわ。