あとりえあげん

劇作家・ミュージカル関連のコミックエッセイスト・多摩美校友会理事 活動ベースは三軒茶屋ですが八ヶ岳の別荘で在宅介護はじめました☆

[ブログ版] 世田谷区三軒茶屋で隠居してます。ときどき劇作家。HPはコチラ http://agen.web.fc2.com/

『R』

12/2 1330~

ふと思うことがあって、救済サイトからチケットを分けていただきました。あとから、綾ちゃんと知寿さんの初日と気づき、どきどきが高まる!

特に知寿さんのダンヴァースは楽しみで楽しみでもう楽しみで! わーわー、その初日からが観れちゃうんだわぁ!

 

前日のプレビュー初日は、予期せぬ出来事にカンパニー全員一丸となっての対応となったようです。その流れのせいか、綾ちゃんも知寿さんも、初役なのに、いらぬ緊張もなく、役としてスッとそこにいらしたように感じました。

舞台のアクシデントというのは、ときどき、いい仕事への扉になりますね。(なんて言うと、当事者さんたちに怒られそうか)

 

8年ぶりの再再演は、半分以上が同じキャスティングであるにもかかわらず、演出家が改めてひいた補助線のせいで、次々とちがう風景を産み出していました。

セリフや歌詞やシーンの微調整で、こんなにすっきりと深いドラマが浮かぶとは!

 

そして、この8年の間で一番の出来事は、『ダウントンアビー』というTVドラマが定着したことかもしれなくて。階級社会の描き方や、お衣裳(さすがの前田文子さま)が、とても腑に落ちる描写になってました。マキシムくんのお衣裳も所作もイギリス貴族に近づいてたし。クローリーさんもお衣裳だけで、立場が明確になった。

 

 

マキシムと「わたし」の内面が、決着に向かうためのプロセスではなく、その時点で抱えている混乱であったのが、ステキ。そのためマキシムが、今までよりもずっと青臭い、弱さをかかえる人間像になってたのが、ステキ。

 

まだほかのキャストの「わたし」を見てないので、この言い方が正しいのかわからないのですが、「強くなったわたし」が女の怖さの一面をちらつかせるのに、肝が冷えました。綾ちゃん、ステキ。新しい「わたし」でした。

舞踏会の前シーンで、メイドのクラリスときゃいきゃい女子するのが好き。境遇のせいで封印されていた「わたし」の一面が、少しずつ開放されてきたんだなぁと、一番実感できる気がします。

 

そして知寿さんのダンヴァース。

以前の公演のインタビューで、ちひろちゃんがよく、ダンヴァースにいじめられる「わたし」という言い方をされてて、わたしにはちょっと違和感があったのですが。

ねえ。執着する自分の世界に乱入してきた異質や違和への反発とか意地であって、小姑?のいじめとは少し違うよね!と、納得できた!

ファベルとの関係もデリケートだったし!

そして内面がもろく崩壊していく哀しみが、狂気へと昇華していく!

もっと言えば、マキシムや「わたし」に影を落とすためのダンヴァースではなくて、レベッカとともに生き抜いたひとりの女子の人生だった! と感じました。

 

わたしね、以前から気にしてるのが「ミセス」ダンヴァースだということで、かの女には旦那さまがいるの? 習慣的にそう呼ばれてるだけ? と、思いめぐらしてて。

映画とかのダンヴァースの旦那さまは(いるとして)不幸だったろうなぁと感じるわけで。

で、知寿さんだと、レベッカを愛する以外にもちょっとは人生の喜びを持ってた?みたいな手触りを感じるのですよ。

 

出雲綾さんのベアトリスもステキだったな。

公美さんのヴァン・ホッパー夫人がめっちゃ俗人で、大好き! 『ダウントンアビー』のおかげで、当時のアメリカ女性の意味もちょっとわかるようになりました。

 

今さんが、綾ちゃんとむきあうと、あぁあぁあぁあぁ~と別の作品を思わずにはいられないという弊害がぁっ!!

 

 

余計なお世話をひとつ。

マイクの音の拾い方が、よくわからなくて。マキシムのウィスパーを拾わなかったり(本人のせいでしょうか)、ダンヴァースの衣擦れを拾ってたり(あのお衣裳、タフタなのかしらとか)、

とにかく!

幕前に客席が息をのんでいるとき、「袖中」の陽気なみなさんの声が聞こえてて、作品世界とそぐわない~