ふとネットで見かけた絵に、全身ウタレてしまった!
奥村土牛の2枚。
土牛と言うと、わたしは朴訥とした線画しか知らなかったので、名まえを二度見しちゃいましたよ。こんな絵も描く方でしたか。
特別展は明日まで!の記事でしたので、その最終日となる翌日、山種美術館に向かう。
さて、この2枚です。(山種美術館のページからリンク)
《醍醐》
《鳴門》※原画はもう少し翡翠色に近かったと思う。
たぎる情念と静謐の同居に、人間の業を超えた在り方みたいなものを感じ、
さて。
原画を見に行かねばなるまい。わたしの中には「どっち?」だろうという予感があったのです。
画家が絵を描いた動機はもちろんあるでしょう。ただ、絵と対峙してみると、技術や思惑、計算が際立っているのでした。
そしてそれは、ガッカリというよりはスゲーナという溜息。
情念と静謐の同居というわたしの解釈は、わたしの内面が勝手に掻きたてたイメージでした。そうか、わたしの内面は今、そういう世界観に惹かれるのか。この絵はそんな乱反射を、わたしに与えてくれたのだと思います。
ですから絵を見ながらは、表現するための技術の分析を、ボリュームの分散や勢い、テクスチャーの多様などに感歎し、学ぼうとする自分を感じるのでした。
表現するということは、ある意味とても冷静を必要とするのです。
そしてその奥に、持てあます想いを隠し持ったとき、
突き抜けるようなメッセージが相手に届くのだと思います。
メッセージと書きましたが、それはお互いが共有できる言葉ではありません。それぞれの、もっと深いところに流れる本質のようなもの。
わたしは土牛さんの絵から大きなメッセージを受け取ったけれど、それは土牛さんが意図したこととは別の意味でした。
ちなみに土牛さんのほかの絵は、数点の作品以外は、なにもわたしに語り掛けてこないのでした。まあ、そんなもんよね。