あとりえあげん

世田谷区三軒茶屋で隠居してます。ときどき劇作家。 HPはコチラ http://agen.web.fc2.com/

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ゴドーは、

ローカルな言い方なのかもしれないけれど、劇作の勉強のひとつに「写経」がある。言葉の通り、名作戯曲をのっぺりと書き写す。一度やったほうがいいと言われながら、今まで挑戦したことはなかった。

 

去年みたミュージカルのワンシーンで、このふたりでベケットの『ゴドーを待ちながら』をやったらおもしろそうだなと漠然と思い、
思い出して、本を入手。

さて読み始めたのだが困ったことに、
くだんのキャストで声が再生され、しかもふたりがいかにも使いそうな言い回しに、一言一言が都度、脳内で変換される。思った通り(?)脳内のふたりは実に楽しそうなのだが。

わたしは、本を投げ出した。「読む」作業がまるで進まないのだもの。

 

というわけで、写経をはじめたのだ。のっぺりと書き写すのではなく(ト書きは書き写し)、聞こえてくるふたりらしいセリフに変換して、入力していく。

これが楽しい。そして、なるほどな発見が山のようにある。
書き写しながら、言い回しを置き換えながら、
するすると戯曲が読み解かれていくの。会話の関係性、隠された意味。ただ読んでるだけじゃ絶対にわかんなかったな。

 

まだね、20分くらいまでしか進んでない。ポッツォが出てきたあたり。3時間くらいの芝居だった覚えがあるから、道は遠い。ま、いけるとこまでいけばいいかな。

 

ところで。
出だしは、ちんちんネタの3連発なんじゃないかと思うんだけど考えすぎかしら。最初のは次のセリフでキリスト教の終末思想にすり替わり、ふたつめは死体の話とつながり、みっつめは老いの哀しみと、だんだんと身近になり、笑いも大きくなっていくと感じる。

男子にとってちんちんは「生きるチカラ」そのものの象徴でしょうから、ゴドーとは「神」や「死」の象徴だと解釈されることの多いこの芝居の入口として、うん。すごい構図だなぁと思う。

 

あとね、このふたり。友だちとゲイカップルの間くらいな関係性がふっとよぎったのだけれど、これは最後までいきついてみないとわかんないわね。

 

セリフ。

脳内キャストはふたりとも、やわらかな声で、どちらかというと女性的な話し方をされる。言葉にリズムがあり、声は張らず、おちゃめで頭がいい。相手を一度受けとめて、にこにこと肯定して、そのくせ最後には自分の主張を絶対に譲らない・・・・・・んじゃないかと思う。(少なくとも、片方はそうwww)

翻訳された日本語は、ていねいに翻訳された日本語であって、口語ではない。
でもね。わたしたちがくっちゃべってるときの日本語って、主語はないし、お互いの共通認識は省略するし、それでもなんとなく周囲すら、意味は通じるような通じないようなあいまいさで、楽しく響いてくる。
『ゴドー』のふたりの会話は、そっちが似合う。と、思う。

まるでね。動作を交えたシュールな漫才なんだもの。他愛もなくぐだぐだと、
話の内容がどこかに運ばれていくようで、どこにも行かない。でもそれが妙に哲学的で、おかしい。楽しい。

音楽に似ているのかしら。

 

あとね。最近の日本語のしゃべり方の、くせみたいな感じ。疑問に疑問形の返事とか、ぼかして否定しないとか、語尾もユニセックスというより女性に近いのかな。
そのあたりにも、思いは飛ぶ。

参考にしている本は1990年に刊行されてるんだが、4半世紀の間に日本語はずいぶん違う言葉になっているなと、実感する。

 

若いころに舞台を観たときは、不条理に「待つ」ことで人生の縮図を描いていると感じたけれど、

わたし自身、老いが見え始めた今読むと、「死」と向き合いおびえ流されてる感が強い。その中での神であり、友人であり、なのかな。

 

 

最後に。
とっても勝手な、無責任な、わたしの中でのベケットの不条理劇の解釈では、
日本の能からの派生ではないかと思っている。(裏付けをとるほど学者ではなくて失礼)
ベケットが能を見たかどうかは不明なのだが、少しさかのぼったイェイツは影響されて『鷹の井戸』を書いているし、

だから「1本の木だけの舞台で音楽的(で抽象的)な会話」という発想は、能からなんじゃないの?と感じるわけだし、

なによりもこの発想で気に入っているのは、

1本の木だけの舞台が、別役さんの使う電信柱だけの舞台として、ふたたび日本に戻ってきていというか、こだましているってことなの。

なんかね、これらの舞台に、共通の居心地みたいなものを感じるの。

 

 

とまあ、これが近況のひとつです。