のうのう能in八ヶ岳
年に1回、わたしがお能を拝見する、初心者向け講座付きのお稽古場公演です。
今年の演目『葵上』は、いつもより登場人物も多く、少し演劇的であるような。
そして初めて、鬼女/般若のオモテでのお能でした。
目の中を金に塗ってある、若い女性のオモテも、初めてだわね。
素敵に古びたオモテをみながら、フト、
ぴかぴかに新しいオモテで演じたらどうなんだろうか?という思いが浮かぶ。
ホラ、
無意識に、
キャラの対比を趣向できないかと考えたんだと思うわ。たぶん。
鬼女や生霊に比べて、生きている巫女は別の生き物に見せたい?みたいな。
それより。驚いたのはね。
いよいよ出てきた般若のオモテがね。――やわらかく笑っていた、気がするの。
タカダカ オノウ ヨ アソビナサイ タノシミナサイ みたいな。
コスチューム・プレイなのよ。ファンタジーなのよ。ごっこ遊びなのよ。
この世で生きるということは。
――みたいな。
ああそうか。夢幻、ね。
六条の御息所の情念が、さらさらと。健康で。潔く。軽やかに舞う。夜叉のドラマはまるでない。
なので観終わったあとが、妙に浮き浮きと感じられ。
とても不思議。
これが、シテの意図する効果なのか――
鼓のふたりがお若くて、キレのある美しい音ではあるのだけれど、存在が前に出すぎていて。
ときには主張が強すぎ、うるさくて。
うーむ。コレはどうなんだろう。と、感じつつ。
ということが、全体の印象を軽やかにしてしまったということは、あるのかしらん?