あとりえあげん

劇作家・ミュージカル関連のコミックエッセイスト・多摩美校友会理事 活動ベースは三軒茶屋ですが八ヶ岳の別荘で在宅介護はじめました☆

[ブログ版] 世田谷区三軒茶屋で隠居してます。ときどき劇作家。HPはコチラ http://agen.web.fc2.com/

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わたしが2・30年後の日本の社会に想いを馳せるのは、
(このまま、その他の事故は起こらない前提で)その頃にはセシウムが半減している中、
人々の意識はどこを向いているのだろうかという興味からです。
 
興味。――うーむ。はい、「興味」だな。
 
チェルノブイリの周辺ではすでに農地は復活していて、安全な数値の野菜が生産されているように。
(植物が吸収する優先順位がセシウムより高い肥料を使用するらしい)
 
日本でも。
放射能との付き合い方が、今より少しは穏やかに正しく、日常的になっているのかな、と。
 
 
 
付き合い方、です。放射能と、どうやって共に、暮らしていくか。
今はまだ、ヒステリックな反応が主流だけれどね。
 
わたしが小学生の頃、公害やヘドロや光化学スモッグなどが社会問題になり、
でも、規制なり企業の取組みなりで解決に向かったように。
 
 
 
自分とは異質なモノ、迷惑なモノとも、共に生きていく努力と工夫。
これが今後のテーマかもしれないなあと思い始めました。
 
 
そう。放射能以外の、異質、迷惑な、モノ、人たち、も含めて。
 
 
 
昨日(再読を)読み終えた『所有せざる人々』で。
今回感じた違和感について考えると。
 
社会や人の意識が「壁」で分断されていることを問題提起していながら、
主人公が還るのは、ある意味壁で囲まれたホームグラウンドであり、
非礼を顧みず、敵を出し抜くことが解決であり、
 
「シェアする」意識のレベルが、今とは違う時代の作品だったのだな。とか。
 
でもそうして、
人の意識や価値観は、時間の中で少しずつ、変化し続けているんだな。
(到達しないこと、旅をし続けることが重要なんだ、ということも作中テーマのひとつです)
 
 
 
自分と違う者たちと、お互いを尊重しながら、暮らすこと。
遥かなる難問だが、
うん。不可能ではないよね、とか考えて。
 
 
 
次の小説を読んでたら。
 
そのお話に出てくる日本の女子たちの発言によると、
自分たちの友だち以外の悪口を、友だち同士で笑いながら話すのが楽しいんだよねえ、みたいな。
 
くらくらくら。
わたしはこーいう感覚に疎くて。ホントウに。でも、実際はそういう人が多いのかなあ、とも。
※ 自分たちの友だち以外 = 社会、政権、企業、製品、業界などなど?
 
この人たちの楽しみを、人格を、尊重するって、具体的にどう処理するんだ、自分???
 
と、
 
 
あれ?
 
 
えーと? ? ?
 
 
うーむ。
 
 
 ・・・・・・
 
  
あえなく撃沈。あーあ。
 
Stamp12mugon