あとりえあげん

劇作家・ミュージカル関連のコミックエッセイスト・多摩美校友会理事 活動ベースは三軒茶屋ですが八ヶ岳の別荘で在宅介護はじめました☆

[ブログ版] 世田谷区三軒茶屋で隠居してます。ときどき劇作家。HPはコチラ http://agen.web.fc2.com/

諭せない、のね

わたしのFBのタイムラインには、右寄りの友人も左寄りも非発言も無関心もいて。
FBのシステムとして、友人の友人や話題の人のコメントも並んだりするわけで、
 
ときにはえらくカオスなコメディになっています。
 
 
今朝、気づいたのですが。
 
あの人は、あの商品は、こんなに間違いだらけである!!と、
とても張り切って攻撃したり曝しものにしたりする人が多いけれど、
 
「相手を諭す」ことはできないのか?
 
(最近よくイラっとくる部分は、ここだったのかなぁ、と) 
 
 
ってか、ね。
もしかしたらこの方たちの周囲には過去、「諭す」という文化習慣がなかったのか?
とも、思いつきました。 
 
 
こういう言い方をすると、また性差とか言われるかもしれないけれど、
「諭す」というのは、父親の役割?
 
祖父母の役割でもあるのかな? 
わたしの家族には祖父母がいなかったので、想像でしかないけれど。
もしくは学校の先生? 
身近な宗教家?(←沢庵和尚みたいな)
 
でも、父親不在から、父親の母親化・友だち化みたいな時流の中で、
または、その他の流れで、
家庭や世間で「諭される」経験がなくなってきていて、
 
なので自分も、おだやかに語りかける習慣を持てないのかな?
思いもよらないのかな? 
 
 
もしかしたら、
自分が(いじめの)攻撃対象にならないための、先手な防御という風潮かもしれないし、
 
もしくは、
以前だったら公で発言する場のなかった人たちも(無自覚のまま)発言するようになったから。
大量な情報として押し寄せてきただけ、なのかもしれないが。 
 
 
 
ところでわたしの考える「諭す」ですが。
相手に求めるのは「反省」や「修正」ではなく。「自分なりに考えさせる」ことです。
 
むむ。またまた、上から目線とか言われるのかな、コレも。