観終わって家に帰り、熱を測ると37.7でした。ぐずぐすゴホゴホ
なので、この舞台をどれだけちゃんと観ていられたのかはわかりません。や、今だって、熱は下がったけれど、大丈夫か自分? 自信ない。さっきから、妙な打ち間違いばかりしてるし。
もったいないはなしだ。最前列のセンターブロックだったんだよ。アノ場面では、きゃん、ぶらぶらがかぁいいな~って喰いついて見てたよん。
観始めてしばらく、妙な既視感があることに気づく。昔、どこかでテキストを読んでるのかな。
なのでシーンによっては、あれ、それはそんな描き方でいいのか? もっと違う意味をもたせる場面ではなかったか?と、発熱する頭でもやもやと考えている。
舞台構成/演出は、それはスタイリッシュでおもしろいアイディアを上手に重ねてあるし、
開次さん演じる、やさぐれた薬漬けのゲイはそれは美しくて魅力的なケモノだし、
1秒たりとも退屈はしなかったのだが、
ずっと、どこか、ボタンをかけ違えているような違和感が残る。
一見ぶつ切りなシーンをばらばらと積み重ね、映像やシルエットを美しく効果的に使い、パフォーマーのからだと声を抽象的に組みあわせて、言葉やストーリー以外のどこかに向かおうとする表現は、今では当たり前の表現方法になってきたな、と思う。(わたしがそういう系統を好んで観ているのもあるんだろうけど)
役者のからだと、発している台詞と、壁にうつるシルエットが、別のことを語っていたりする。これはアイディアだ。おお、と思う。だけど、その寂しさが、次の気持ちに積み重なっていかずに霧散してしまうと、アイディアだね、だけで終わってしまう。
技法は立ち上がり、表現としての物珍しさは薄れ、これからは何を「厚く」表現するかを問われる時期が始まったのかもしれない。つまり、表現の一形態となったってこと。魅せてほしいのは、その先です。
開次さんの演じるからだは、机に椅子を重ねたうえに立つだけで、星空の下で孤独に押しつぶされ、壊れ、くずれていく寸前の魂を描いてみせる。
でもね、わたしにはね。あとのおふたりの存在が、それを際立たせるための存在くらいにしか感じられなくて、残念だったのです。
たぶん、このテキストが書かれたのは80年代で、
エイズが不治の病としてゲイの方々のからだと精神を究極まで追いつめていた時代で、その意味では、正しい解釈かもしれないけれど。
ゲイであることが当時ほど悲惨ではなくなってきた昨今(という言い方をすると、まだまだまだですからと反論されそうだけれど、とりあえず)、
このメロドラマな三角関係を通じて、それぞれの押しつぶされそうな孤独(対人の孤独と、自分自身への不信感と迷走)を、描いてこその、このテキストなんじゃないのかなあと思うわけで。
わたしの好みとして、はね。
ふたりの男性の間をさまよう女性の孤独と破滅と、救い(どくろに托されるハムレットの台詞は救い、なのかな? 救いとして解釈したいな)を、観てみたかったなあと思うわけです。
最初に書いた既視感の強いシーンというのは、女優がラッシュをみているだけのシーンなんだけれど、たぶんもっとぐいぐいとコワイはずなんだよなあ。怖さを感じた人はいたのかな。わたしがぼんやりしてただけかな。
にしても。昨日よりかは、ふらふらしていない今の感覚で観たかった。むん。
『ポリグラフー嘘発見器-』
東京芸術劇場 シアターイースト
2014/10/22 19・30-
つけたし
開次さんのからだが持つ表現力が舞台役者の標準装備となると、演劇がもっとおもしろくなるんだろうなあ。声はね、まあこれでいいんだけれど、役者の声ってのはまた別の表現技術だよね。
わたしがパフォーマーという言い方をよくするのは、いろいろな理由があるからなんだけれど、表現者として求められる基礎技術のボーターがあいまいになっているんじゃないの?という気分からもあります。
芝居、ダンス、マイム、歌、朗唱、クラウニングとか、
勉強不足を許しているのが素人芸な日本演劇のゆるさで、うーん。世間ではそれでよしとされているのだから、それでよし、なのかな。王立なんたらとエリートである必要はないし。
ちなみに、日本の劇団はほとんどが素人集団(意味を汲んでくださいね)なので、
演目ごとにプロデュースされる形態が日本でのおもしろい演劇を立ち上げる方法になってしまったわけだが、
結果として、「演劇論」がまとまった財産に育っていかないのだろうね。
わたしね、誰かに、何かに、圧倒的に説得されてみたいんだと思う。世界観が覆るような瞬間に出会いたい。
・・・・・・
これも発熱のせいの戯言かしらん。きっとそうだわ。