大道芸人の大地くんが、今後は踊りだけにする、いわゆる大道芸のパフォーマンスはもうやらないとか言い出したとき。
たぶんみんな、ため息をついた。だって。あの演目が、あのショーが、大好きだったもの。そして言い出したら引かない大地くんの頑固もわかってるから、誰も何もいえなくて。
わたしはしばらく様子を待ち、折りを見て、復活をささやくつもりではいた。
でも先日のライブのあと、他のメールのついでに友人に告げたワ。
「からだが変化中。なるほど大道芸パフォは今は無理だわ」
友人からの返事。
「変化していく瞬間は二度と見れないから貴重ですね」
なるほど。あのライブはそういう意味をもっていたのか!
ダンスとして「すごいよかった! おもしろかった!」と言いにくかったのは、
はたしてこれらの動きはかれ自身を表現してるのだろうか?という疑惑な印象をぬぐえなかったから。では振付のいいなりなのか?と言うと、ちゃんとからだが消化はしている。
ぱんっと最初の明かりがあたったとき、このライブは正解だったんだなとわたしは確信した。今までみたことのない存在で、かれはそこに居たので。
ダンサーでもない、役者でもないからだをして。知念大地というひとつの分野としか言いようのない表情で。
かれは器用すぎるのかもしれない。
ふつうは、他人の振付をからだに落とすときの、葛藤とかもがきとか疑惑とかがあり、それを昇華させる過程でその人の表現になるのだろうけれど。かれはストンと他人を信頼し、素直にどんなふうにも動けてしまいすぎて、まるで負荷にならないみたいだ。
だから、かれ自身が踊ろうとする衝動に繋がっていきにくいのかも? わたしはそこが物足りなくて、未消化に感じたのかも?と思う。
他人が振付をつけるのが難しいダンサーなのかもしれない。
では他人(大御所)の振付は無意味だったかというと、それは逆で、
本当に本当に大切な経験で、
わたしはズット、大地くんはからだの存在そのものが饒舌過ぎるわりには動きすぎると感じていたので(ざわめく路上で踊るという性質上、それはそれで当然なんだが)、
閉ざされた空間ならではの、じりじりとした動きやその他の細やかな動きや、
表現の技法のバリエーションがたくさん、かれのからだを通り抜けていくのを感じ。
これからの、かれの踊りが楽しみだなあと思ったわけで。
他の人の振付を、からだに通すのも大切。
そのあと、自分の感性に振り戻した踊りも大切。
そんな。
知念大地のはじまりの場に、遭遇できた喜び。
もう一度。
いろんな意味で、お誕生日おめでとう。いい夜でした。