(一旦書き始めると、書くなぁ。わたし。
読書 『進撃の巨人』(!)に戻りかけたんだけれどね)
原発の判断は、
30年後くらいには大まかな方向が決着するのかな、と思うけれど。
今しばらくは判断の混濁が続くのだろうな、と思う。
わたし個人は絶対に反対で。
でも賛成派の理解に勤めなければ、切り崩しもできまいと思うのと。
自分が未だに会社勤め(精密機器メーカーのデザイナー兼加工工房運営)だったら、
安価で安定した電気に執着したのだろうかと迷うところなのと。
時の流れがいつか正論を導くのだろうけれど。
その正論がどちらなのか、ちっとも確信できないのが、不安で。
(自説を疑うというスタンスは大切だと思うので)
わたしはね。しばらく、
エジソンとテスラの直流・交流の対決を例に考えていた。
権力/エジソンの広報活動で真実がゆがむ。
後の時代では笑い話でしかないけれどね。
で。
原発はどっちなの?と。
わたしたちは今、エジソンとテスラのどちらを支持してるのかしら。
(ここでやっかいなのは、テスラ支持にGE/原発メーカーがいたこと。皮肉?)
確かエジソンは亡くなるまで認めなかったんじゃなかったっけ?
直流仕様もなんやかやと全廃というわけでもないし?
というあたりに、原発を置き換えると落ち着きがよさげなのも、怖い。
30年後には笑い話。
でも今は、ちっともその真実が見えてこない。
もうひとつは、奴隷制度の廃止。
これはベネちゃんの追っかけwで観た『アメイジング・グレイス』というイギリス映画から。
当時のイギリス経済を支えていた奴隷制を、人権擁護という思想でひっくり返す。
思想というキレイごとだけではひっくり返らないけど、方法はあったし、だから出来た。
という映画でした。
世の中を変えるということ。変わるということ。
長い、遠い、スパンで眺めたい。
ちなみに今、悩ましいのは。
最近の「若いコ」たちは、
赤の他人や世間との距離感を、心理的にも物理的にも計れない、臆病というより無感覚。
一見無関係なAとBとを、繋げて考える能力がない。
なので結果、理想とか反権力とか、自己流のバーチャルを夢想できない。
みたいな手触りがあるわけだけれど、
(能力がないのではなく、やり方を知らないだけだと思う)
やがてこれがマジョリティ、正統となって、
その感覚がベースとなった表現文化が求められるようになるのかな、と。
知らずに固執したままでいる自分の可能性が怖い。
そこまで生きてるって保障もないけど。
だからといって、自分の感覚への固執を手放したら、もっとヤバい。
せめて。冷や水を被り続ける年寄りでいたいな、と。
そしてそうした無感覚・未自覚・マニュアル信仰の中での、
かれらの原発の判断も予想できない。全然できない。――やっぱり「怖い」という言葉になるなぁ。