あとりえあげん

劇作家・ミュージカル関連のコミックエッセイスト・多摩美校友会理事 活動ベースは三軒茶屋ですが八ヶ岳の別荘で在宅介護はじめました☆

[ブログ版] 世田谷区三軒茶屋で隠居してます。ときどき劇作家。HPはコチラ http://agen.web.fc2.com/

『リア』

渡辺美佐子さんがリア王のタイトルロール(!)を演じられると聞いて、
しかもキャストは、他男子2名(計3名でシェークスピア)ということで、
演出は佐藤信さんとなったら、
今月の予算?を無視してチケット購入。
 
その甲斐あった。贅沢な演劇空間にくらくらと酔う。幸せ〜
 
 
もちろん、感性があればそのままでも楽しめる舞台だと思いますが、
 
正統派の『リア王』を一度や二度は観たことがあったほうが、
構成や台詞の解体と再構築の妙に身もだえできるし、
 
抽象表現(歌やダンスや不条理劇)に慣れているほうが、
3人の、からだと言葉の洗練と詩情に興奮できるし、
 
年老いる先行きの悩ましさを実感しているほうが、
最後のシーンに、透明な救いに、泣ける。
 
と、思います。
 
 
知的興奮というのは、素養の裏打ちが必要です。
わけのわからない感動も大切ですが、
何故、素晴らしいのかをちゃんと理解したうえでの感動は、
自分が人間として生まれてよかった!と感謝したくなるくらい
深いものだと思います。
 
 
 
シェークスピアの『リア王
筋立ては微笑ましいし、台詞の2/3はなかなか幼稚でくどいだけという気がしてます。
(わたしはね)
でも、それでも、
そのいらいらする退屈を打ち破る、すごい台詞とテーマを宿している作品だと思うのね。
 
なので、か?
演出家さんたちは、
その濃密なエッセンスの箇所だけを抽出して、煮詰めてみせた。って気がします。
新しく、産みだされた(生みだされた、ではなくて産む)リアという個。
 
シェークスピアだからってストーリーや悲劇を楽しみに来ると、
度肝を抜かれるというか、ガクゼンだろうな。
 
この舞台では、
シーンで言うと荒れ野と幕切れ、あとは回想に近い形で三姉妹の台詞が入るくらいで。
ちっとも説明的ではない。
つまり、その台詞がどんな状況の末に位置しているかを知らないと、
――どう聞こえるのかな。
 
知っていると、
えぐられるような新しい意味を叩きつけられるのだが。
 
美佐子さんという女優のからだを通すせいもあってか、
台詞がひとつひとつ、まるで違って聞こえるの。
この言葉はそういう意味だったのかと、発見させられる。
  
 
 
最初に美佐子さんが出てきてまず思ったのは、リアの中の母性と生命力。
リアの母性? 
コーデリアの死体を引きずり彷徨い、姉娘ふたりの幻を糾弾するにも、
リアが、まるで違う生き物としてそこにいて、
ときには老婆の嘆きになり、惑いながらも生きる手探りを続ける力強さとなり、 
 
男性が演じるリアは、ただただ絶望に一直線なんだが、
 
そして対する娘たちは、ただただ勝ち誇っているだけなのだが、
 
 
3人の娘たちはひとりのつるんと白塗りした男優さんが演じ分けてらしたの。
ちょっと悪魔ちっくに、道化じみて。
 
で。もうおひとりは、道化役。
演技の計算が行き着く先は調子っぱずれな自然体、という楽しさ。
 
リアがメイクと衣裳替えする時間つなぎのこのふたりの、
演技と素顔を行ったり来たりするビミョー感(もちろん全部計算ずく!)が。
ああああ。
チョット、類を見ない演劇感で。
小劇場っぽいんだが、そこを突き抜けちゃってる絶妙なゆらゆら。
 
 
美佐子さんは、初めてのシェークスピアだそうです。
こんなに柔らかい光と詩情にあふれたシェークスピアもあるんだなと、泣きたくなった。
ってか、つぅぅっと一筋、わたしは泣いたんだっけ。
幕切れのリアが、こんなに幸せそうで決意に満ちていたことは、ない。
 
美佐子さんのリアは、魂が救われていた。
それがどんな意味であれ、
なんという救済。
 
 
 
そして。カーテンコールの3人のはしゃぎっぷりが、ステキです。
この作品を遊び倒した!ゆえの達成?
 
 
26日まで。座・高円寺2 にて。
来年5月の再演も決まっているそうです。
 
さて。
このテキストのリア。美佐子さん以外でも、男性が演っても成立するかしら。