Dとは、ダンシング・ドラミング・ドローイング。
コンテンポラリーダンスと、パーカッションと、ライブペインティングのコラボが、本能寺で2回公演。
その2回目を拝見しました。
詳細 → http://kyoto-artbox.jp/event/8663/
本能寺↓↓ (出火が重なって以来、ヒヒの部分が去になっています)
本堂内です↓↓
1回目公演のライブペインティングが残されています。
左の壁画の後ろに、ご本尊さまがいらっしゃるのよ。
ね。そこから伸びている五色の布がわかるかなあ。
ご本尊の御手から始まり、あのりぼんは境内まで伸びて、垂らされた端に触れながらお願いごとができるんだよ。
(わたしと連れが何をお願いしたかは後述しますね)
えー。ダンスとパーカッションのコラボは容易に想像がつくと思う。ついた?ww
で。ペインターは。
そのライブを背後から眺めながら、その場で壁画として、情景を写し取っていくわけね。
もうね。めちゃスリリングなのよ! ってか、描く者からみるとありえないことだって!
(これも後述)
由緒あるお寺の本堂で、
仏性の天敵というか煩悩の代表格みたいに言われる「女体」、であるダンサーやパーカッショニストが踊り、
天邪鬼の化身めいた?伊藤キムが踊る。
しかも奉納というより、これは説法なのだろうか???と思うと。
そりゃ、軽いめまいに襲われるわ。
観客は正面or横から観ているわけだけれど、
画家さんだけは背後からの視座なので、
描かれる絵はちょうどダンサーが鏡に写ったような状態になるわけね。
お稽古場の鏡に背を向けた、あの感じ。
描かれている世界は、そうか、観客がみている風景ではなく、その裏側。
観客の目の中で、オモテとウラは混在をはじめるのかな。
感覚が混沌としてくる。
軌跡を残し、にじませる鏡なのかな、これは?
違う。線描と塗りによる、影。影。動きを途中でやめた影たち。なんだわと思う。
めまいは続く。
当然だけれど、ダンサーはストップモーションではなくて。
画家さんがイメージをつかみ、描き始め、
もう一度振り返ったときにそのモチーフは、
まるで違う様子で動いているわけなのよ。わかるかなあ。
描くという行為が格闘技のように思えたわ。
ほんとに叩きつけ、擦りあげて描いてらしたし、
画家の体温はどんどん上がっていくように感じられたし、
なので画家さんは。そのままを描写するというより、
モチーフである肉体が持つ塊感や動き、「本質」そのものを描き取っていたように思うの。
本質を、写し、壁に移し取る、感覚。技術。
するとダンサーの本質は、壁の中に描き残され、そうなの、残されて。
本来の肉体のほうがどんどん空ろに、軽く、遠ざかって行くように見えてきたの。
不思議な感覚だったよ。
めまい。めまい。
それからね。
さまざまに重なるパーカッション、というより打楽器たち、というより鳴り物の数々があって。
おどろいたのはね、
その中ではティンパニやマリンバって、異質なまでに澄んだ音階を持ってるという発見。
これは限りなく美しくて、でも頑なな規律なのだなと知ったのよ。
西洋の音楽のほうが、美しい異質に聞こえたの。
パーカッションは規律と奔放の言ったり来たり、なのかしら。
音楽そのものが、そうなのかしら。
わたしにはよくわからないわ。
でもこれも。価値感の反転だわよね。
だいたいね。キムさんは、死体となって運ばれて登場したのよ。
死体は人形のように動かされ、
反動を持ち、
反逆する意思を持ち、
あ。これはすいぶん昔にかれがイメージしてたもののバリエーションだと思い当たり、
あの説明がこのダンス(形/型と血)になったのかと、
こちらの心拍数があがり、遥かな気持ちにもなり、
キムさんのダンスは、他のどんな人の表現とも違うのだと改めて思った。
ダンサーなのに肉体を、限りなく「個々なるモノ」として意識している。
自分のからだを自分以外の何かだと思っている。(ちがうかなあ)
女性のひとりが、からだの部位を単語にして、ごろごろとしゃべりだすと、
シンクロさせて動くキムさんのからだもごろごろと分解し、床いっぱいに転がりあふれていくようになり、
つめたくて、さびしくて、
その裏側は、温かくて、やわらかで。
なつかしいキムさんのダンスの手触り。
舞台というお皿のうえで、とっちらかして、投げ出して、
なのに果ては、人間のからだが光に昇華していく。なんでなんだろうね。
だけど宇宙に繋がっていく感じ。
唯一無二のキムさんのからだ。
仕上がりに向かう壁画。
重なっていっぱいにゆらゆらと投影されるダンサーたちのシルエット。
壁画もシルエットも「モノ」なのに、生命力が流れ、重なる。饒舌な音楽になる。
そして床に撒き散らされるのは、花びらというより、肉の血しぶき。
壁画にも絵の具が乱反射して。
読経で始まったショーは、読経とゴォォォーンという鉦の余韻で終わった。
ああー。終わっちゃったぁ、と思った。
↑このキムさん、絵に溶け込んで見えて好きだな。
右が画家さんです。
↑ピンクがパーカッショニストさんです。
一緒に観てたのは、この春から京都で大学生になったはたのでした。
三軒茶屋で知り合って、一緒に遊んでまだ半年の、はたのと、
遠い京都のお寺で、膝を並べて座って、キムさんを観ているという不思議。
考えるとすっごい不思議だったわ。
共に観てて、共に心を震わせて、
でも出てくる感想が真逆な単語だったりする不思議。
わたしが思っているキムさんのパフォーマンスの成り立ち方を説明してみる。
謎が少し解けたような気がすると、はたのが言う。
(うふふふ。この解説を垂れ流すつもりはありませぬ。キムさんの神秘よぉっ)
他の方たちが去っていく中、
画家さんが使用された画材をふたりで覗き込む。正直に言います。少しいじりました。
(そんな人は他にいません)
画布というか板、が何でできているのか、うーん、見極められないねと触れてみる。(こらっ)
でもビビって、
終了後も軽い興奮状態が続く画家さんに、声をかけられませんでした。
パフォーマーが持つ興奮と、違う質の様子でいらした。
すっかり暗くなった境内に出て、前出の五色のおりぼんを両手で挟み、お祈りをする。
「キムさんがこれからも、たくさん、ちゃんと、踊ってくれますように」
声に出したら、
なんで無言で祈った自分とまったく同じことを?と、はたのが笑い出す。
だって、そうだよね。うん、それしかないし。
でね。そのあと。
まぁどうしましょうとなっていた見知らぬ方を、
はたのが少しお手伝いしたら、なんとそのかたは、
キムの母ですと名乗られたって。
わたしは、そんなはたのの分のフォローをしてたので、
愛想よさげに中途半端にしかお話してなくて――聞き逃し、
あとから確認して、
・・・・・・(泣きたかったです)
さいごのエピソードを。
地元民となったはたのは、自転車で本能寺まできてたのですが、
壊れた鍵のまま駐輪場に停めておいたら、
アッサリと持っていかれました。
えっ嘘っマジ?
ふたりでうろうろと探し回ったけれど、見つからず。
あたりにはたくさん自転車が停めてあるので、かなりの広範囲を見て回ったんだけどね。
気持ちの決着がつかないので、もう一度境内に戻り、
はたのが件の五色のりぼんにもう一度お祈りする間、わたしは近くに立ってた警備員さんとなんとなく話す。
それを横で耳にされたお坊さまのおひとりが、交番の場所とかを教えてくださり、
心細いときにありがたいことで、
そして会話のついでにわたしが、
今日はよいものをみせていただいてありがとうございました、とご挨拶したら。
そしたら、
その横を通りかかった別の若いお坊さまが、
微笑みながら、両手を合わせて頭をさげられたの。
そのとき全員の間にふわりと漂った、香りのようなものに。
仏の教えというものが、
ちょっとだけわかったような気持ちになったよ。(ほんとかな?)