(デリケートな出来事なので、書くか迷ったのだけれど。忘れたくないので)
小児病棟で。
廊下にいたとき、戻ってきたストレッチャーがあった。
乗せられていたこどもは、
なんて言えばいいのだろう。
生きている意味とか、
何故そこまでして生きなければいけないのかとかを、
問いただされるような、様子だったの。
言葉を失うって言い方をするけれど、
言葉以前に感情をも失われるって感覚を、はじめて知る。
言葉も感情も失ったわたしは、
そのこどもの存在をそのまま、ただ受け入れたいと思い、
自分のからだに光を宿すイメージですれ違う。
うしろから付き添ってらしたおとうさまらしい方が、
にっこりと「こんにちは」と頭を下げられた。
(青いエプロンに、ボランティアスタッフだとおわかりだったのでしょう)
その自然でやわらかな笑顔に、わたしはまた心打たれる。
おとうさまは、このコが生きていることに感謝しているのだわ、と思う。
そしてわたしは。
たまたますれ違って小声で挨拶を交わした、見知らぬ方の心の安らかさを、願う。
ホントウに、心底、願う。
哀しみをぬぐうことはできないでしょう。
せめてこれ以上は苦しまずに過ごされますように。
キリスト教の言い回しにある、
「神さまに愛されたこども」という意味が、初めてわかった気がした。
あらゆる尊厳を取り去られて、生きているこどもは。
ただそこにいるだけで、
わたしたちに、愛することや生きることをシンプルに強く問いかける。
何故そこまでして生きなければいけないのか、という書き方をしてしまったけれど、
あのコが生きている意味は、確実にある。
ご家族は、キビシイ想いをくぐられていると思う。
お医者だって、生きながらえさせることを問い続けながら、
治療にあたっているのではないかと思う。
そんな。シンプルだけれど複雑な、美しい存在。 無言で問い続ける天使。
最後に残った光に似た感情を言葉にすると、 「感謝」 が一番近い気がする。
わたしは、
あの父子から、そんな光のような微熱をおすそ分けしてもらった。