ときどき、自分に問いかけるの。
わたしは震災の準備を、水なり食料なりをそれ以外を、それなりに用意している。
用意しているつもりでも、それなりに穴はあるのだろうなと思う。
いざというとき。
他の人と補い合いながら、向き合えるとは思うのだけれど。
さて。
なんの用意もしていない人のフォローをも、自分はできるのかな、と。
自分への問いは、そこです。
これだけのことがあって、未だに用意していない意識レベルの低さに、
たぶんわたしは怒りを覚えると思う。
でも人として、困っている人のフォローは同等にするのだろう。
頼ってきた友人なら、まだ受け入れられると思うの。一緒に生き延びようねと、考えられる。
でも、じゃあ、赤の他人は?
こどもなら、受け入れられるわね。
高齢者は? 大勢の赤の他人は?
少ない食料を、未来が見えないまま、
何の用意もしていなかった人たちと、大勢の人たちと、
自分は分け合えるか???
なにかの拍子に、考え込む。
自分がひとりの場合。
護るべき人が一緒にいる場合。
生かす人の優先順位を、わたしは考えるのだろうな。
命の重さは同等だ、ナンテ嘘だわね。
優先順位はあるわ。エゴだわ。でもそれを、愛っていうのよね、たぶん。
それとも、――それとも?
あとは、その場になってみないとわからないわね。
ん。
震災のあと、とは限らないわね。
今、このとき。
自分はたくさんの見ない振り、気づかない振りをしているわ。
自分の心地よさを優先するために。
でもね、それが生きるってことで。卑怯ではない。それが同等ってことだと、
最近、思えるようになってきた。
と、思うわ。
――たぶん、ね。