十中八九、聞き違いだったんだろうなあと思いつつ。
別室のTVから聴こえたイギリス人のおばさんのアテレコ・コメントが、
「息子の恋人の名まえがアドニス(男の名まえです)でね」と、ごく自然に流れたことで。
どきりとしつつ。
聞き違いかどうかはともかくとして。
近い将来、コレが自然な時代が来るかなあと、ちょっとほのぼのしたの。
価値感の開放。
衆道は日本人には新しい価値感じゃないしねえ。
『羣青』も、恋愛の特異より距離感の温度が話題になってた気がする。
案外、近いことなのかもしれない。
ちいちゃんのコスプレが楽しみで観いたドラマで、(見るべきはソコじゃない!んだが、次々と次々と楽しかったんだもの❤あ。無表情の中の表情がステキでしたね)
大政奉還のあたりで、
時代の流れについていけない。でもその中で生きていくということは?
みたいな台詞があって、
あらためて、今の時代の、価値感の変化の早さ、を思う。
うん。今だけじゃなくて、過去にもこんな時代があったわけだね。
わたしは、広告の勉強をしたり、まんが家だったり、劇作を学んだりしたので、
時流にアンテナを張ってるほうだと思うけれど、
ときどき気をぬいて、ホントに必要なのかな?とか考えたりもする。
なくても生きていける。
でも、頑張れる範囲でもう少し、反応していようかな――とか。
大政奉還、明治維新の時代の価値感は、今だからおおよその結論が出ていて。取捨がハッキリしているわけで。
時代のさなかでは結論が見えないぶん、取捨にあれこれ迷う、現代では、
今のわたしたちの迷走する惑いも、
100年後にはザックリと簡潔に結論付けられてしまうんだろうな。
ええー!?
そしたら、この悩ましい惑いも、全部無駄なのか?
ああ。100年じゃないか。
17年前の震災から学んだことも多かったけれど、
一方で、よくぞ立ち直ったよネの一言で、まとめてたりする、よな。
サイクルはもっと短い。
というわけで。
10年、50年、100年後の視線で、今のものごとを見られないものか?と。
・・・・・・
いやあ。無理、かな。
わたしたちに見えるのは、ごくごく近い未来だけな気がする――?