心密かに感謝していることがある。
観光バスの窓の外を眺めながら、湖ってナンカ怖いよねと友人に言ったとき、
なんで?と返ってきた。
だって主みたいな何かが潜んでいるような景色があるでしょう?
長年の友人は一息おいて、やっぱりあげんはわたしの見えない何かを感じるのかなぁとつぶやいた。
うん。否定せずに静かに認めてくれたこと。それが感謝。
わたしは、
そっか、普通は湖はただ湖と視るのか、と知る。
あんまり親しくない人に、わたしがどう感じるかは黙っていたほうがいいんだな、とも。
そんでね。
ミュージカル『エリザベート』にご出演のみなさんのインタビューを読んでいたら、大半の方がトートはシシィの産みだした幻想だと捉えてらして、
あれ? へえ、そうなのか、と思う。
霊的なものを実感していない人たちにとっては、トートはそういう捉え方になるのか。
なんだかオモシロイ。
わたしはトートは死の概念だと思う一方で、当然のように、超自然な存在の人格化みたいに捉えていたんだと、今さら気づいた。
先日、ジロドゥの『間奏曲』を観て。
これは夢見る女子が、幽霊と呼ばれる超自然的な存在に見入られ魂を失うところを、現実の人々の歌声によって呼び戻されるという喜劇で。
エンディングは違うけれど、ああ『エリザベート』だなと思ったの。
(昔、祐一郎さんが演じた役のパロディみたいな、道化じみた幽霊で。あらあら? 祐一郎さんの気持ちが引き出した動作を、カタチだけなぞっても空回りするだけなのに。でもね。軽々としたそれも、ひとつの解釈かなぁと思ったのよ。超自然な存在はそんな喜劇じみた軽い存在かもしれない、みたいな)
つまり、そうか。
超自然的なモノについて書こうとしたら、大方の、現実しか見えない人たちが納得できる説明、描き方をしなければいけないってことだな。
(その意味でも、ジロドゥ先生のテキストは勉強になります)
ちなみに。
わたしが感じる霊的な存在は、人格化はされてません。意思もなし。
空気とか風とかみたいな感じです。
会話はできない。でも「そ〜こに、いる♪」。そんな感じ。