あとりえあげん

劇作家・ミュージカル関連のコミックエッセイスト・多摩美校友会理事 活動ベースは三軒茶屋ですが八ヶ岳の別荘で在宅介護はじめました☆

[ブログ版] 世田谷区三軒茶屋で隠居してます。ときどき劇作家。HPはコチラ http://agen.web.fc2.com/

辺見庸さん の

詩集の読み方ってわからない。
なので、
辺見庸『眼の海』 を机に置き、一日に2-3編ずつ読んでいる。
じりじりとなかなか進まない。そういう読み方を選んでみた。

かれの言葉は純化され過ぎていて、どこからこの言葉が出てきて組まれたのか。
まるで見当もつかず。
意見ではない。現実からも遠い。たぶん、魂で描写しただけなのだろうな。
そんなふうに考え、考え、

透明で青青しくて、少し海の味がする、言葉の群れを。
くちびるの縁で味わう。

絵画だったら、抽象画。
舞台だったら、コンテンポラリーダンス
自分とは異質な、他人のエネルギーが、爪の先で、わたしの表層を、うぶ毛を逆立てるように、なでるのだね。

 

辺見庸さんの著作を始めて読んだのは、
ドキュメンタリーレポートとでも言えばいいのか。
世の中の似た部分を似た意識で掬いとるのに、至る結論がわたしとは真逆である不思議。
読むのが苦労だったんだよ。
なんで、そういう導きになる?って、いちいち足止めをくらう。

個の意識の差、というより。
個の意識の表層の差、を、意識させてくれたというのかな。

真逆な価値観を、敬意を払って受け入れたい、みたいな。

しばらくして。次に読んだのは小説。こちらはサラサラすんなりと受け入れられた。
そうね。いずれ映画も観てみなくては、ね。

で。この人はいったい何なんだろうかと、長く長く思っていたけれど。
ようやくわかった。
つまり、詩人、だったの、ね。

 

夕べ読んだ詩は。

あ、これはわかる。言葉でガレキを組んだんだって。

砂丘のようにどこまでも続くガレキの山の前で感じた、言葉にならない自分の中の惑いが、
連なるページの中に再現されていた。と思ったの。

この想い。見えない穢れに犯されたガレキの山の哀しみ。原点。
その痛み、の共有が。
何故、世の中ではこんなに難しいのだろう。と、今でもわたしを痛めることも含めて。

言葉も思考も失った、海が去った後の、空の色が漂う、あの空間。
そこに居続ける人々。いのち。生活。時間。

(あらゆる意味で)避ける人々。(あらゆる意味で)利用する人々。(あらゆる意味で)哀しむ人々。
あらためて、届けたいのかしら? 思い出してほしいのかしら。
このガレキは何によって造られているのか。

そしてガレキの山は、
人々の間に、延々とした壁を作っている。
だが多くの人々は混迷の中で、あんまりその壁を意識していないみたいで。
ベルリンの壁について、嬉嬉として語ったであろう人々が。
壁の向こうとこちらで、大声で、届かぬ言葉を叫んでいる、みたいな。

うん。
届かない時点で。それはもうすでに言葉ではないのにね。
隣人以外の誰も、あなたを褒めないのにね。

壁が見えないのか。見ようともせずに。見ないことで、自分の責から外れられると思い違いができると信じているのか。逃げられると思いたいのか。
ケガレたガレキを。壁を。痛みとして取り入れるって、どんなことだと思う?

ううん。
そんな問いすら、詩人は拒否しているような。

 

詩の中で、壁は収束に向かって。
割れて、崩れて、洗われて、夜の海になり、砂になり、している。ような気がしたの。

諸行無常。だけどその中で。

人は波にかかとを洗われながら、立っているはず。
あなたは哀しい笑みを湛えた瞳で見返しながら。
未来を想い、羽ばたく、はず。

そんな風景が見えたんだよ。