あとりえあげん

劇作家・ミュージカル関連のコミックエッセイスト・多摩美校友会理事 活動ベースは三軒茶屋ですが八ヶ岳の別荘で在宅介護はじめました☆

[ブログ版] 世田谷区三軒茶屋で隠居してます。ときどき劇作家。HPはコチラ http://agen.web.fc2.com/

愛と死の――

考え事をしていると(弟に言わせると、こういうのはもう体質に近いらしいが)、
わかっていたつもりの言葉の意味が、どんどんとわからなくなってくる。

で、改めて、言葉の意味の検索を次々とかけているうちに、いよいよ迷路に嵌り。
どんどんと最初の検索からはずれ、

 

さっき行き着いたのは、「快楽とは自己を見失うこと」――ええっ、そうだったのか?

ということは。
わたしは自己を突き詰めていくと「孤独」にぶち当たると思っているので、
ではでは、
快楽の反対語は孤独、なのか??? と、なる。

いや。苦痛、あたりだろ。
そして、断じて、孤独と苦痛は違うものだぞっ!

  ヾ(* ̄0 ̄)ノ アゥゥゥゥゥ オテアゲ オテアゲ ヤメダ ヤメ!

 

落ち着いて考えれば、昔から、国語辞書とか漢和辞典とか――
と、
こう書いてしまうと、辞書と辞典って、どう使い分けるの?と検索をかける性格です。
辞書は「言葉について」と限定されるみたい。
――でね。
辞書でひとつの単語を引くと、周辺を読み始め、類似を読み――と、
枝葉をたどっていったのと、今でもあんまり変わりがないわね。
いや、ウィキペディアレベルになるから、今のほうが範囲が広い、か。

 

で。

 

この数日の体調不良のうだうだの中で、
萩尾さんの『残酷な神が――』を読みなおしていたらね。
このコミックは、一度読んだら怖くて、なかなか読み返せなかったのだけれど。
ようやく読み返してみたら、
で、その間にメンタルの勉強をしたので、構成が違う意味で理解できたんだけれど、
それで、つまり。

終盤、「愛と死」に「エロスとタナトス」とルビがあり、
わたしの意識は数秒『エリザベート』に飛び、読み進めたかったので傍らにメモだけして。

 

読み終えて、
いろいろ考えたあとに、メモを読む。
(たくさんのメモ?と思った人、エライ。20以上のポストイットが机に鱗状となってました)

 

えっと。 
死=トート ということは、 愛/エロス=シシィ ??? という図式。

歌詞を思い浮かべても、その辺の意味はないと思うので。
これはまったくの、コジツケでしかない。けれど。

シシィは愛の化身だろうか、と考えだすと、なかなか深い。
シシィは孤独だ。だが一方で、愛/エロス? 
それともやっぱ、死/タナトスをトートと共に具現するだけか?

あれ? ルキーニさんは、冒頭でなんていったっけ? ・・・・・・
死だ、愛だ・・・・・・

――迷路に嵌った。いっか。この先は、舞台に期待。 (^∇^) ウハハハハ

 

他のメモ?

客観視できる自己と主観でしかない自己とのバランスについて、とか。
(なのでエスとかイドとかの意味を検索したけれど、あんまりリンクしませんでした)
表現者とはつまり代弁者だから、とか。
(お神楽の派生をイメージすれば、わかる? 無理か)

 

『残酷な神が――』を読んでると、
愛するってもっと単純なのに?と思いながら、
だから逆に、自分には思いもよらない理屈とか感性に、
「普通の人」は「他の人」はどう捕らえているのか?という未知の窓が開かれる。

わたしの中では、直感が解答なので、
普通の人や他の人が納得できる説明を、改めて探すという作業が必要なのだ。
表現しようとしたら、ね。

 

にしても。言葉と観念のすり合わせって難しい。
ま、だから。
言葉を編んで物語りにして、イメージを呼び込み広げて、観念にすり合わせる作業をするわけだがな。