『オンディーヌ』の幕切れの台詞のように、ときどき心の中でつぶやく。
――惜しいわ。ここまで政治色の強くない作家だったら、もっと夢中になっていたでしょうに。
でも、それがカラーだしね。
だからかれの劇団がときどき、今回みたいな詩的な匂いの強い作品を作ったりすると、
酔える。大好き。
2012.3.20. 19:00- 笹塚ファクトリー / 燐光群
この作品を通して、たぶん燐光群の今後の表現は変わるんじゃないかな、と思う。
期待する。
方法論は新しいそうだけれど、仕上がったモノはコンテンポラリー・ダンスの線上にある。
光と影の中で、言葉や意味を解体して再構築する、裸舞台。
まあ、それを演劇とて表現しているところが、新しい切り口につながりそう、かな。
何がスゴイのかとなったら、それを燐光群が演じていることだと思うの。
だだっ広い美しいブルーの床の上。ストーリーも設定もない世界。
今までも類似のことはしていたけれど、踊れてない歌えてない残念が、ちゃんと踊れるカラダ、歌としての声に仕上がっていたこと。(ビューポイントという方法論を使ったそうです)
すでに得ている高い技術を一度は全否定して、新たな表現に挑み、手に入れて。
今後の表現が楽しみだねと、仕上がってしまえばオメデトウで済むけれど。
WSの間の不安を、よく耐えたよね、と。そこにも感動してしまう。
そしてこれは、コンテンポラリーダンスではなく、演劇。
大きく違う点が2つあってね。
ひとつは顔の表情力。役者は内面の感情を、涙や視線や歪めた口などを使って、魅力的な意味を秘めた強い絵にできる。普通、ダンサーはそぎ落とす部分。
もうひとつは、
ダンサーは振り付けがあっても、その時点に感じる心身の反応として動く。
役者は記憶を再現する。
たぶん同じ振り付けをなぞっても、ダンサーだと偶然な揺らぎになり、役者だとテキストに沿った構成となる。
えーとね。もうひと段階、意識を開放できて、自分と他人のカラダを楽しめたら。客席を巻き込めたら。もう少し違う風景になる気がするのだけどね。
それを許すかは、演出家の判断だわね。
一番、揺さぶられた部分。
同じ動きのリフレイン、街の風景、人々の生活の断片が、青暗い海の底で見え隠れするシーン。(「1年前」を思い出さずにはいられない)
ふいに、かれらのユニット名が「燐光群」だと思い出す。
以前、主宰者に尋ねた。なんで燐光群?
ヒトのタマシイの群れだと、返ってきた。
この作品は、劇団にとっての転換点であると同時に、原点でもあるのかしらね。
そのせいか、
すべてが終わった完全暗転で。わたしのまぶたの裏では、一面に海蛍が揺れていたの。
(イメージを勝手に喚起したわたし限定のシーンです〜 (>_<))