あとりえあげん

劇作家・ミュージカル関連のコミックエッセイスト・多摩美校友会理事 活動ベースは三軒茶屋ですが八ヶ岳の別荘で在宅介護はじめました☆

[ブログ版] 世田谷区三軒茶屋で隠居してます。ときどき劇作家。HPはコチラ http://agen.web.fc2.com/

思想言論の自由?

たとえばガリバー旅行記みたいに。たどり着いた異国で、そこの住人には家族を作る習慣がないのだったと始まったら、
何をイメージする? 不幸でしょうか。

ちなみにその住人たちが求めているのは、孤独や孤立ではなく、魂の静けさだと言ったら?
ついでに。「産めよ、増やせよ」幻想から、無意識に脱却した。それだけ、かも?

世帯平均人数が2人を切って1.9人の東京とは、そういう都市で。
経済が豊かだから。
自分のルールを他人に押し付けないから。

と、言葉を使えば、どんな理由付けもそれなりにできるナ、と思います。

実際は。
孤立死と、子どもを育てる環境についての考え方も付加しなきゃいけませんよね。
だとしても、みんなで話し合うことというよりかは、
個人の選択が結果として社会を作る。
そうして、普通は自然と、答えが出るものです。

 

 

卒業式の君が代、ですか。
口が動いているかチェックしただの。立つの立たないの。
そのたびに振り回される、思想言論の自由という「言葉」。
進展してないですよね。何故でしょうね。

わたしは。場に応じた使い分けができないのなら、それは思想ではなく単なるファッションではないかと思っています。
妥協したら負け組とかそんなレベルで考えているから、答えが出ないのでは?

だいたい「学校」とは、(危険な単語だけれど、あえて→)軍隊を基準に、規律ある集団生活を学ぶための訓練の場でしょう?
ルールと、いかに自分はルールと折り合いをつけるかを学ぶ場所。

なのに、学校の公式行事でも、個人の自由を主張できるはずだと考えるのが、そもそもの思い違いです。
自分の主義主張とは違うとしても、場のルールに合わせる。礼をつくす。基本はそこ。

思想言論の自由を振り回す人が、ではそれ以前に、
学校に通わない自由の選択を主張するかというと、そっちは聞かない。
それを言い出すと、
生き残るために人を踏み台にする自由とか、生きることをやめる自由とか、
話がややっこしくなってきます。やめます。

で。学校に通わない自由を選ぶと、その後の資本主義社会で勝ち組になれる希望が否定されるから。
学校に通えば、その勝率があがるに違いないという幻想は得られるから。
つまり。学校に通っていれば、何を学んだかというよりも、組織に対する忠誠と役割り(軍隊の精神?)を身につけてる人材と証明されるからで。
そこは認めているくせに。

君が代」だけをピックアップして、何を得たいのでしょう。

「自由であること」を教える学校の創立? その学校を通せば社会人としての成功は得られるはず? 人ととしての幸せも?
一時期、そんなことを謳う学園があったようなと記憶はありますが、以後、あまり普及していないみたいですよね。

わたしは、
美大で「自由である」ことを学び、社会人としてそれは苦労を重ねて。嫌な想いは数知れず。それでも押し通して現在、人としては充分に幸せですけれど、皆さんにオススメできるかは、別だなぁ。
そして、その場に合わせたヒツジのふりをすることなんて、簡単。どうでもいいことですもの。
自分にとって大切なのは、ソコじゃない。それくらいは学びました。

(某氏にあてて、キビシイ言葉の書き方をしていますが、学校教育がコンナものではないことも、実際の多くの教育者が聖人君主であられることも、存じてますよ〜)

 

ですから。
君が代問題」とか言われても、ごめん、わたしには、
言葉を使ったごっこ遊びを楽しんでいるのね、としか聞こえませんから。
ということです。
騒いでいるのは、当事者たちというより、票集めをしたい周辺、なんじゃないの?

そんなお友だちに振り回されるご自分。うれしいんですか?