あとりえあげん

劇作家・ミュージカル関連のコミックエッセイスト・多摩美校友会理事 活動ベースは三軒茶屋ですが八ヶ岳の別荘で在宅介護はじめました☆

[ブログ版] 世田谷区三軒茶屋で隠居してます。ときどき劇作家。HPはコチラ http://agen.web.fc2.com/

風見鶏が同じ方を見る

よりよく生きる意思の強い女子の間では、「運命の流れ」みたいな生活の解釈が流行っているようだよ。
エスカレートして、なんでもないことまで「運命だわ」とハシャグから、いや、それは違うでしょうよと言っても、聞こえてない。 本人、うれしいみたいだから、前向きにいられるみたいだから、ま、いっか。 となるんだが。

ちょっと、なぁ。 いいのか?

人生に戸惑ったり、立ち止まって見回したり、
自分を疑ってみることも、大切だと思うんだが。
泣きながら迷子になることで、逃げずにトコトン落ち込んでみることで、
見えてくる大切なものもあると思うが。

ものごとの解釈を、固定するのは、やっぱよくない。 だから、言葉にスガるな、と思うのよね。 逆方向のフィードバックを重ねていないと、薄っぺらになる。

 

例をあげると、わたしの最近で言えば、
あげんさん、なんでそんな本を読んでるの?みたいな本を読んでたでしょ。
ほんとに、なんで?なんだけど、
その3冊めに、話のものすごく枝葉なんだが、旧約の引用がチラと出てきて、
わたしのアンテナにひっかかり、
おや、なんで誰もこの人をネタにしてドラマを作ってないの?と、今さら「出会う」わけだ。
(調べたら、ヘンデルがオラトリオを書いてました)

運命の出会い? いやいやいや。
でも前出のかの女らの思考ルートでいくと、わたしに矢印が与えられたことになるんだ。
無意味と思えたことに、実は意味があったと。

 

でもわたしに言わせれば、その程度の運命?なんかはザラザラあることだし、
うひゃぁっと血の気の失せる、ありえない出会いも、その直後には膝が震えても、
落ち着くと、使い物にならないのに気づいたりして。 残念なんだが。

確かに「流れ」の一部かもしれないけれど、たいしたコトじゃない。 ことが多い。
いちいち振り回されてたら、大変なことになる。
(振り回されるのが大切な時期もあるけどね) 

 

 

ほんとの「運命の流れ」はねえ、逃げたくなる。
怖くて流れに逆らうけど、
でも、逃げられない――と観念させられ、押し流されるから。

わたしは「カルマ(業)」という言葉が浮かび、打ちのめされた。
受け入れるということは、背負うものも引き受けること。 

だから。

軽々しく使われても、鼻で笑いたくなるし。

ときどき、自分を否定してみたほうがいい、と言いたくなるわけ。
それが出来ないのは、自分の弱さから逃げる言い訳だと、自覚したほうがいいと思う。
この流れで間違っていないと、自分を慰めてるに過ぎないって。

それを自覚したうえで、「運命の流れ」に自分は乗っていると思い込めるのなら、
それはそれで、いいと思う。

 

 

表題に書いたのは、正確な言い回しは忘れたけれど、
ジロドゥの『トロイ戦争は起こらないだろう』から。 (違ったかな?)

運命の1日には、身の回りの風景すべてが、ひとつの何かを語りかけてくる。
主人公は、戦争を避けようと奔走する。 それでも戦争は、起きるのだ。