昨日の夜に観たパフォーマンス。 とてもとても楽しんだ一方で、
かなり期待のユニットだった(すでに過去形?)分、わたしにはいろいろと「残念」だったのだけれど、
流れてくるつぶやきでは、絶賛? あ、そうなんだ?
こんなとき、自分の価値観がグラリとくる。
けどね、
「新しさ」に驚いていたり、「熱演」に感動してたり、「あの女優がいつもと違う」とか、
んん。
わたしが「それじゃ、あそこのユニットと同じじゃん」とか、――とか――とかって感じた部分がソコに相当するのか?と思い、
つまりは経験値の差? ジェネ・ギャップ? ってか、ま、いいケド。
綱渡りしてるようにひりひりしてたニュアンスが、夕べは同じことを床上でやってるような感じで。 ラボ公演と銘打っているから、ではなくて、もっと根本が逃げちゃったみたいで。
やろうとしていることはおもしろいのだけれど、分野としては好きだけど、新しいものではない方向に転がってしまい、
わたしの中で、特別!が普通になっちゃった、のかな。 そこがすごく残念。
そっか。 わたしの感性のわがまま、か。
で。
昨日拝見したふたつのパフォーマンスを通して、観客の姿勢みたいなものが、
カリカリとわたしの神経を引っかいているのですね。
もちろん、どうあろうと、その人の自由なのだから、
何かをジャッジするというのではなくて、
今どきの傾向のスケッチ、程度な感覚で。
たとえば、昨日の夜の公演では開場客入れ時から、
ステージではパフォーマンスは始まっていたのだけれど、客はその空間をまるで共有していないの。 多くの人たちが無視して、おしゃべりとかして開演時間を待っている。
(という空間を、わたしは観賞していた、という言い方もできるのだけれど)
なんだろう。 時間や空間を区切って生活する習慣、とでも言えばいいのかなあ。
お約束が始まるまでは、自分を閉じちゃっている感じ。
昼の公演でも、似たような感じだったなあ。
パフォーマーの方はそれを壊そうとしているのに、観客の方が反応できてない。
んんん。
と、ここまで書いてきたら、観客という単語の「客」という部分に、イヤラシサを感じてきた。
金払っているから、「客」?
だとしても、参加するためのあり方が、もう少し「粋」であってほしいかもな。
観客を観客と呼ばないとしたら、何? ご見物? オーディエンス?
それとも、「客」である距離感を、観客は求めているのでしょうか?
これだけ文章を書いておきながら、なんなんですけれど。
言葉とは、共感や情報の共有のために派生したツールですが、言葉ほど共感には向いていないツールはないと思っています。
言葉=偽善、といってもいいくらいに考えています。
じゃあ、戯曲は何?と言われたら、
音楽で言う譜面ですよ。 プレイヤーやアレンジでいくらでも変わるでしょ? あの土台。
だからわたしは自分が書いた台詞を、役者さんの生理に沿って言い換えたり、言わなかったりしてもいいよと言います。
だってね。
たとえば「阿呆」という言葉にわたしが感じるニュアンスを、西日本出身の人が共感できるか、とてもとても不安。 (昔。 西と東では、アホとバカの使い方が逆転するって言いましたが、ネット時代の最近ではどうなんでしょう)
でも、そのパフォーマーが「阿呆」という言葉を引き金にしてつくったからだは、絶対的なコミュニュケーションツールになる、はず。
と考えて、わたしはパフォーマンスという分野を、追いかけているわけです。