あとりえあげん

劇作家・ミュージカル関連のコミックエッセイスト・多摩美校友会理事 活動ベースは三軒茶屋ですが八ヶ岳の別荘で在宅介護はじめました☆

[ブログ版] 世田谷区三軒茶屋で隠居してます。ときどき劇作家。HPはコチラ http://agen.web.fc2.com/

両界曼荼羅

今が価値観の過渡期である、とは、簡単に言えるのだけれど。
どう変わってきているかの説明が難しくて。
その説明に、両界曼荼羅が最適なツールであることに気づいたんだ。

まず両界曼荼羅について。
詳しくはリンク先を読んでもらうとして、2枚の曼荼羅から構成されます。
胎蔵界曼荼羅」と「金剛界曼荼羅」。

先月に観たTV番組から得た知識によって大雑把に説明すると、
胎蔵界曼荼羅」は、中央から仏の教え(光)が周囲に広がっていくのを表し、
金剛界曼荼羅」は、ひとりの人間がステップアップしていくのを表している、らしい。
この世の真実?が何故2枚あるかは、謎。 番組では杉浦康平さんが、人の二面性を象徴しているのかも、みたいなことをおっしゃっていた。
それが、杉浦さんの悟り、なのかな。

わたしが感じたのは、
金剛界曼荼羅」の時代が終わり、「胎蔵界曼荼羅」の時代が始まっンじゃないか、と。
ふたつの時代様相は、変わりばんこに歴史を作ってきたのではないか、と。

最近までの日本人は、いろんな意味でステップアップを目標としていた。
でもこれからは、
それぞれ個々の中から発する光(のようなモノ)を、お互いに感じながら、響かせあいながら、
融和させていくのが目標なんじゃないかな、と。

先月、高速バスの中で眠りほうけていたら、窓の外に広がる緑の木々に揺り起こされた(気がした)。
そのときふと、葉っぱの一枚一枚から放たれているエネルギーが和となって、1本の樹を構成していることを感じ、その木々がひとつの山を構成し。
無数のエネルギーの響きあいが、ただそこにあるのが「世界」、だって感じられたのね。

そして、
このことは、意識できる人とできない人がいるので、
大声で触れ歩くことではないのかも、と。

 

PCやインターネットの発達に、付いていけてる人といけてない人がいることについて。
識字率の歴史と同じかな、と考えたことがある。

別に文字を読めなくても、人は生きていける。
でも読めたほうが、より豊かな、かなり豊かな経験が出来る。
ね、PCやインターネットも同じ。
世代とともに、やがて、あたりまえな教養になるんだろう。

 

一方、首をひねったのは、韓ドラの人気爆発現象で。
韓国TVドラマを貶める発言で申し訳ないのだが、
あの、単純で記号的なドラマを安心しておもしろいとする、日本人の精神の後退とも思える流れは何だろうか、とか。 

萩尾望都さんや大島弓子さんのコミックを発端とする)人間の心の陰影の描写が、
日本のあらゆる表現形態を難しくしすぎたかららしい、という解釈があり、
まあ、そんなものなのかなあと思いつつ。

楽(ラク)に逃げる人間のサガもあるよなあ、とか。
学ぶおもしろさよりも、
簡単に上位に立てる気分のよさが嬉しい人が多いんだな、とか。

えっと。
学ぶことをおもしろがれるには、精神が子どもの状態(非完成)であることが条件らしくて、
これは生物学/進化論あたりのテーマらしいが。

進化を放棄するのも、その人の権利です。

 

だから、時代の流れは、
価値観も、
社会のあり方も、
演劇論も、
恐ろしい勢いで変わってきているんだよ!ってことも、

気づいた人だけがわかって、その先を目指せばいいのかもな、とか。