あとりえあげん

劇作家・ミュージカル関連のコミックエッセイスト・多摩美校友会理事 活動ベースは三軒茶屋ですが八ヶ岳の別荘で在宅介護はじめました☆

[ブログ版] 世田谷区三軒茶屋で隠居してます。ときどき劇作家。HPはコチラ http://agen.web.fc2.com/

喪失感の先に

夕べは夢の中で、このブログを書いていたようで。
起きたらぐったり。 
当然ながら、リアル更新されてるわけはないから、思い切り、脱力。

   [E:gawk] 

寝る前に読み始めた本のせいなのはわかっています。
一気に自分の中のいろいろが塗り変えられて、それ以上は読めなくなり、
部屋の中をうろうろと歩き回り、諦めて寝た挙句が ↑ ↑

 

その前の自分がどうだったかというと、
メンタルケアのハウツー本を3冊/1日で読み、
過去の成功と失敗を思い出しながら、
技術的に欠点となる自分の資質を、どう変換させるか、イメトレ。

自分をどうデザインすれば、よく機能できるか。
の前に、
冷静に(ホントか?)対他人においての自分を洗い出す。

これ以上はもう、実習しないとわかんないな、というアタリまで。
というわけで、心身ともに、チョット敏感過ぎ!になっていたかもしれません。

 

対象喪失 悲しむということ』 小此木啓吾 中公新書

是非!と、講義で紹介された本です。
夕べ読んだのは20数ページのあたりまでだから、まだ序文に近いのでしょうね。

30年前(バブルの初期になるのかな)に書かれたもので、
日本では90%以上にガン告知をしないと出てきて、医療意識の進化スピードにびっくりする。(現在はケアが確立してるので、告知したほうが延命効果があるとされます)

さて、
敗戦後のドイツは、ヒットラーという精神的一体化の対象喪失の悲哀を、すべてをかれの責めとすることで抑圧し、国民は人格の分裂を引き起こしてしまった、としています。
あれ???
日本も同様に天皇に押し付けた、とは出てきませんでしたが、
精神的対象を会社組織に置き換え、献身による一体感を求めたのだろう(高度成長期を指すのでしょう)とありました。

 

震災直後、
わたしは日本にあふれた、糾弾という無意味で無自覚な悪意と、無自覚に競うようにいい人であろうとする狂気とに、
スッカリ気持ち悪くなりました。 拒否反応と言えばいいのかな。

でもそれは、大きなものをなくしたことに対する混乱と哀しみの表れだったのかと、
初めて理解したのです。

同時に、
わたしが過去、「頭が悪すぎるけど何故?」と思っていた人間たちのアレコレも、
何か大きなものを失くした哀しみゆえの、
と理由付けできるような気がしてきたのです。

すべての人間の不愉快な言動に対して。

 

甘やかす必要があるの?と切り捨てることもできます。
が、
切り捨てることで、社会全体が、自分自身が幸せになるかな?
ツケがまわってきそうな気がする。

人間にはつまらないプライドがあるから、
自分が何かを失くしたこと、
失くしてとても哀しいのだという感情を溢れさせることと、向き合えないのかも。

だから生きる基本として、感謝の気持ちを持てないでいるのかも。
失くしたことと向き合えれば、「今、ある」ことの大切が実感できるはずだし。
感謝の気持ちに切り替えられれば、もう少し幸せになれるんだけどなあという人は、
大勢いますものね。

 

今のわたしは、あれにもこれにもあてはまる?
ガンバって理解をしてあげなきゃいけないの?? と
混乱してるかもしれません。 してるな、たぶん。 

でも理解できれば、許すことは簡単になるし、
懐を大きくして、対処法も考えられる。

 

 

で、ついでに。
書くべきテーマ、にも繋がるしね。