『聖なる予言』を読了。
巻末に河合隼雄さんが、めくじらをたてるほどのことではありません、とコメントされていて。
めくじらをタテて読んでいた自分は、チョット赤面する。
河合先生は、それよりも精神の成長のひとつのあり方を、こうして「アメリカ人に」わかりやすいお話に組み立てたことを評価したいみたいなことを書いてらして、
自分はまだまだ狭いのかもな、と反省する。
9.11や3.11が起こる前、20年も前に書かれた、
しかも作家が初めて書いた小説なんだからと、
わたしは自分に言い聞かせながら、がんばって読み終えました。
精神の開放と言いながらも、
選民意識や、
契約(取り引き)をベースにした価値観や、
個人主義という束縛からは逃れられず、
最終目的として輝ける天国の約束を必要とするらしい。
意識を宇宙にまでひろげても、
個人(と自分の友人範囲)の救済という契約でしかない。
根の深い束縛。 お気の毒にとも感じます。
待てよ。 でもこの部分は、
日本人読者には響かないんじゃないかという予感もあり、
アマゾンのレビューを眺めてみると。
みなさん、自分の都合に合わせた解釈で、
しかもそれを自覚したうえで感謝している様子で、
ほっこりする。
わたしが最近得た日本人感はと言うと、
仏教で言う「慈悲」。 許すという行為を、
「うやむやにして和を尊ぶ」と読み違えた結果では?と。
ここで大切なのは、個人だけでは罪悪を「うやむや」にはできないことで、
誰(神)に管理・指導されるわけでもなく、
同等な他人同士の高度なバランスの取り方であるかも?ということで。
まあ逆に。
全体の幸せを望むあまり、個人の犠牲を強要する面が出てくるわけだが。
最終的に大切なのは、
何をもってそれが真実であるとするかというよりも、
ひとりでも多くが、納得できる生活と向かい合えるかであるとするのなら、
契約も、うやむやも有効だが。
今の日本の現状を考えると、
見つめなければいけないものは、もっと先に位置してるような気もする。
さて、
『聖なる予言』には3冊の続刊があります。
個人主義から脱却する展開なら読みたいけど――
『星の王子さま』や『デミアン』、70年代のSF(クラークやハインライン?)を仄かに引きずった世界観は、わたしにとって異質なモノではないのですよ。