あとりえあげん

劇作家・ミュージカル関連のコミックエッセイスト・多摩美校友会理事 活動ベースは三軒茶屋ですが八ヶ岳の別荘で在宅介護はじめました☆

[ブログ版] 世田谷区三軒茶屋で隠居してます。ときどき劇作家。HPはコチラ http://agen.web.fc2.com/

救済

すんません。 文字にしながら、考えます。
自分の考えをまとめるために、人に向けた文章を使う。 (いいのか?)

ゆうべから、もやもやとしてるコト。 チョット、地雷な言葉や考えも交じります。

 

今の世論のあり方をみていると、昭和の戦争責任の追求に似ているように感じる。

戦争を起こしたのは軍部や天皇であると糾弾することで、戦争責任が国民/自分たち全員にあることから目をそむけようとする人々を、わたしは苦く思っている。
昭和ヒトケタ生まれの方(戦中教育を受け、生き残るために周囲にノーと言えなかった青少年)にとっては、自己弁護として仕方ないかなとも感じるけれどね。

それと同じ(社会としての)精神構造が、
現在の政府や東電に対して、発現しているように思え、

つまり、日本人はあの過去の経緯から、なんら気づきも反省もしていなければ、学んでもいないわけだと。
というより、
そんな体質が卑怯であるとか理に反するとか、非生産的であるとか考えるよりかは、
当然であるとするほうが心地よいらしい――???

「わたしが何をしたっていうの?」
だから、何もしなかったこと、言わなかったことが、ですね。
「いけないのは、責任者よ。 そのための責任者でしょ」
だからって、誰かの責任をつるし上げれば解決するわけでもないですし。
「ううん。 少なくとも他人を罵倒することで、自分は間違っていないと自分の気は済むわ!」みたいな。

とにかくなんでも批判しましょ。 エライ人や体制を批判していれば、わたしって頭いいってふうにみえるでしょ? エライでしょ?
そしてそんなわたしに、感心してほしいの。 よろしくネ。 みたいな。

「戦争はイヤね」「もう二度としないようにしなくてはね」ということは、
情感たっぷりに語り合い、確認してきたけれど、
では二度と戦争をしないために、何をどうしなければいけなかったのかは、
全然、話し合ってこなかったな、とか。

それに似たことが、原発というモノに対して、繰り返されていないかな、とか。

今は、とりあえず戦争する心配はないから(ないのか?)いいのよ、みたいな。
それより早く、電気を思いっきり使える生活に戻らないかしらね、ぷんぷん、みたいな。
嫌な過去は、早く早く忘れましょうよ。 それが幸せよ! お気の毒な方たちは、ご自分でどうなかなさるわよ、おとなですもの。 それよりちゃんと、汚染されていない食べ物を子どもたちに食べさせられているかしら。 みたいな。

うん、 間違いじゃない。
間違いじゃないけど、どこか、アレ?みたいな。
(それから、そうじゃない人たちも大勢いますから。
 こーして書くと、「それオレ?」と心配しなくていい人に限って反応する)

 

この精神構造を、
批判したいのではなくて、理解したいんだ。

 

日本人は基本、無神論者だとして。
だから、自分の良心に反するけれどとってしまった行動に対して、
たとえばキリスト教みたいに、懺悔すれば神の赦しを得て安心できるという、要領のいいシステムを持たないわけだから。

そんな自分を救済するために、
正しい人間であると、周囲に承認してもらうために、
無意識に選択している様式か何か。

そのために、みんなで大きな選択を間違えてしまうときもあるけれど、
それはそれでしかたないわ!で、済ましてしまえる、ようなバランスの取り方。

これは啓蒙してどうにかなるって類いではないと思うの。
このまま愛して、認めて欲しい「ありのままの自分」な日本人?

でも何か。
今以上に取り戻せるもの、楽になれるもの、違う形の救済を得るための自分のあり方みたいなものが、
あるような気がする。 とても単純なところで。

それはナンダロウ。 今日はここまでかな。

 

そして。
というようなことを踏まえて、
日本人にとってウレシイ演劇って、じゃあ、どんなんなのよ?ってことも。