あとりえあげん

劇作家・ミュージカル関連のコミックエッセイスト・多摩美校友会理事 活動ベースは三軒茶屋ですが八ヶ岳の別荘で在宅介護はじめました☆

[ブログ版] 世田谷区三軒茶屋で隠居してます。ときどき劇作家。HPはコチラ http://agen.web.fc2.com/

『レ・ミ』を観た

2011.4.16. 17:00- 帝国劇場

この回の出来は、
歴代最高の舞台に数えられるのではないかと思いつつ、席が前から2番目でしたから。 巻き込まれ感のテンションが高すぎて。
う、もう少し、後ろの席で観たかったかもと、思う。 

24年前、はじめてこの作品を観たとき、照明の美しさに度肝をぬかれたことを、久しぶりに思い出して。 間近で、人物の影のつけかたや繊細な表情に、改めて惚れ惚れ。
美しい。 
わたしは過去、幾千の舞台を観てきたけれど、下水道のシーンは、あらゆる舞台の中で1番効果的で、美しいのではないかと思っているのですよ。 (次点が『オペラ座の怪人』の地下湖かな) 

 

それから前回、書き忘れてしまいましたが(すみません)、
特筆すべきトップは、ビリーさん(音楽監督/歌唱指導)でした!
学生たちの出来を褒めたけれど、その学生を鍛え上げたのはだぁれ?ということですね。

全員が全身で、その役としての声を出せている。

役者の魅力を効果的に引き出すには、他人の眼と計算が必要です。
これはたぶん、役者の皆様が考えている以上に大切だと思うのですが、
それが実に上手に、ひとりとして欠けることなく、機能していると思うのです。

 

マダムが阿知波姐さまで、
仏頂面をして細かい芝居をしていらっしゃるのを目で追いながら、大笑いして観てました。
女として刹那いなぁ、マダム。 でもおかしい! この造形、大好きです!

育くんのマリウス。
エポや友人たちの死を、重く切実に人生の中に受け止めて、
だから目の前のコゼットがとても大切なんだ!と、男子としての成長が伝わってきました。
        [E:good]
コゼットの折井さんが、
相手との気持ちのやりとりが丁寧で、いつも目で疑問や想いを投げかけているというか。
だからふたりの恋愛が、自然に真剣に見えて。
それから
このおふたりとプラスアルファ(エポやバルジャン)のハーモニー、絶品です。

アンジョはこれで両方のキャストを拝見しましたが、それぞれ違って、それぞれの信念があって、気持ちのいい声で、よかったと思います。 ただわたしには、過去の何人か(東山さんが始めたと思う)のアンジョに比べて、マリウスへの男の友情が足りなくて、うーむ惜しい!とか、思ってしまうのだけれど。 もともとはなかった描写だから、なくていいんだけれどね。

 

最大の見所は、初役のKENTAROさんのジャベでした。
うわぁ! すばらしかったよ!
すばらしかったけれど、祐一郎さんのバルと組むの、この一回きりなんだよねえ。
その意味で、伝説の舞台になったかもしれない? 

相手と対決しているジャベです。
自分の弱さや優しさを否定して生きてきたのに、最後に崩れて、自分の弱さや優しさに取り乱すという造形です。 そんな自分を否定するのではなく、ホントウの自分自身に戻るために自死を選ぶように見えるジャベです。

そしてKENTAジャベと向き合ったとき、
祐一郎さんの中から、新しい体温のバルが引き出されてきてたよね。
感謝です。 (と、わたしが言うのもおかしいかwww)

 

 

祐一郎さんのバルジャン。 一世一代の芝居が出来た!かも?だったね。
最後に、霊的?な感情か何かが、降りてきてた? 何かが、自分という容れものからあふれ出すのを耐えてたよね。 
観ながら気づき、ふぅっと気持ちを寄り添わせてみても、それ以上の言葉では表現できないような、もの。 光のような、何か。

バルジャンを演じる祐一郎さんは、
ときとして、役者とは空っぽな容れものかもしれないと、感じさせてくれるんだ。
ジーザスでもそうだったけれど、
シャーマンとしてなのか、大いなるものからのメッセージかギフトだかを、からだに宿すの。
そんなとき、この人は神さまから人類への贈り物かもしれない、と思う。

や、ご本人の内面は、ごく普通の男。 ん? チョット風変わりか?な男子なんだけれどね。
ご苦労さま、そんな役割を背負ってしまったんだね、と思う。
(こんなこと、ココに書いちゃってよかったのかな?)

ロビー展示に書いてた「あしたは」の意味。
ようやく意味がわかったよ。 ってか、歌を聴いてて、そういう意味をこめてたのかって、わかったんだけれど。 ずいぶんずいぶん、深い意味だったのね。 

それから、
あそこはアレでいいんでしょうかと言ってしまいましたが、目の前で見ていて、尺からして難しいのだとわかりました。 ごめんなさい。
ってか、
実はあのシーン、マリウスさまの絶妙な仕込みが必要だったのねと、初めて気づきました。
この作品。 演る地獄が、つくづくいっぱい仕込んであるのねぇ。 

 

昔、ネットの戯曲講座で初めて、「演劇の神さま」という言葉を書き込んだとき、
講師からなんだそりゃ?と突っ込まれて、3つくらい定義を返事した記憶があるけれど。
帝劇にいると、この場合は「劇場の神さま」かもしれないけれど、
かなり実感する。
それはある意味、この劇場が皇居を向いて興行しているからかもしれなくて。
多くの人は、皇居を天皇さんの住居くらいにしか捉えていないようだけれど、違うし。

その意味でも。 この時期のこの公演に、深い役割を感じたりする。

 

どうも、霊的な表現になるのが、イヤだな。
どう言えば、いいんだろう。