たぶん、世の中にミュージカルを提出する意味はナンダロウ?なんてことを日々考えているからだと思うが、
ある日、
宮澤賢治にとっての創作は逃避だったのではないか、とか思い至った。
そして逃避という形の闘争だった?とか。
完全な不勉強で、まったく根拠のないただの直感です。
TVゲームのRPG、映画やアニメのヒットも受けてすっかり市民権を得ているが、もともとファンタジーは現実逃避の烙印。
そういう社会不適合者はマイノリティだったんだけどね。
今ではメジャーになりつつあり、
優しい日本、ではそんな闘争すらも、平和なぬるま湯にふにゃけて溶けて、あやふやなまま、流れてなくなっちゃったんだな、とか。 (いいのか、悪いのか)
救いのない現実の中で、自分の中の「祈り」や「詩心」という無価値な救いに、価値があるのだという幻想を与えることで自分を生き延びさせる手段。
それがファンタジー? ミュージカル???
なんて流れの中で、昨日は。
石原燃がオフィス3〇〇に書き下ろした芝居『笑うハチドリ』を観る。
逆かな。 モチーフが賢治の短編だと聞かされていたから、燃の視線で再構成される賢治?という興味から、上記の印象が湧いてきたというべきかな。
演出は超ファンタジーな渡辺えりさん。
えりさんは実験公演と呼ばれていたが、
超リアリストな燃さんとのコラボは、わたしが昔、書きたかった芝居に近い世界で。
ゆえに、
自分の出来の悪い内臓をさらけだしているような気恥ずかしさに付き纏われる。
そして当時、
もがいてももがいても届かなかったもどかしさの原因が、
作家の混乱だけでなく、
どうやら役者連の表現力と演出家の覚悟(に対する信頼)あたりにもあったらしい?と
気付く。
演劇を書く勉強をしていたとき、
時間や空間の超越を不自然とされ、説明や分解を要求されたり否定されたりして。
逆にわたしの体質では、何故自然なんだろうという疑問があり。
ミュージカルに慣れた体質だからか?と思い至って、悩むのをやめたのだが。
先日、深夜TVで少女まんがのコマ割り(時空間)の特異性を説明されて、ここだったか!と大いに納得。 少女まんがは(特に男子は)訓練しないと読めないんだよと力説されてた。
わかりやすい説明の必要性が、ようやく腑に落ちる。 (今さら、ですな)
正月用のゲームとして『アサシンクリード?』を買う。
友人の忠告もあり、人格を疑われかねないから公言はしてきませんでしたが、
暗殺者(ヒトゴロシ)になるゲームシリーズの新作です。 当然CERO-Z(18歳未満禁止)。
?と?のオープニングに「このゲームは異なる人種、宗教、信条を持ったスタッフにより製作されました」とあるように(?にもたぶんある)、価値観の判断が複雑で、特に人権に関してキビシイ現実と向き合わされます。
最初は、自衛と殺す理由のあるターゲット以外の殺人は避けていたのですが。
まとわりつく物乞いさんに繰り返しミッションの邪魔をされ、マジ死ねばいいのにと感じる自分。 キレてついでに暗殺する。 意味のない殺人は意味も甲斐もないんだなと思い知る。 だが、不便だからだんだん見張りの兵も潰していくのが当然になっていく自分。
はい。
キレイゴトではすまない自分の中の闇と、向き合いました。 ゲームレベルですけれどね。
でもこれは、とんでもない擬似体験でしたよ。
状況の中で自分が生きていくための闘争、殺人。 その正否は限りなくグレイ、です。
だからその中で、自分が、人間はどうすべきかを考えたいな。