今日読んでいた本のアフタヌーンティーのシーンに、
クレソンのサンドイッチ
と出てきた。 どんな味?って、想像がつかない。 アフタヌーンティーに出てくるわけだから、きゅうりのサンドイッチ(これは大好き)を手本にすればいいのだろうと、薄切りのパンとクレソンを買ってきたが、消化しなければいけない食材の優先順位があるから、作るのは保留。
おばあちゃまのために用意されるのだから、クレソンはざっくり刻むのか?とか、迷う。 茎は取るのか、みじん切りか?
読んでいたのは『レベッカ』。 新訳とかで、「わたし」のモノローグが平成女子の言い回し。 とても魅力的な文章だが、70年以上昔に書かれた原文の単語とかを推理しながら、読む。
読み始めてすぐに、ふんわりと微笑みが浮かんできた。
舞台や映画で、んん?とひっかかっていた恋の始まり部分がスムーズに構築、描写されている。 翻訳者は女性。 かの女も完全にわかって訳している。
でも、
ヒッチコックの映画では、名優ローレンス・オリヴィエが台本を読み込み、非常にデリケートにマキシムを演じているのだけれど、原作は読んでないのかもしれない、とか。
ヒッチコックや脚本家が原作を読んでないわけはないけれど、サスペンスとしては読んでいてもラブ・ストーリーとしては読めてなかったらしい、とか。
「わたし」がマキシムのどこに心揺れるのか、わかってない。 (^_^)
ま、
結局、男に女心はわかるまいと言ってしまえば、そこで終わり。
せ め て、
映画ではマキシムのキスの変化をちゃんと描いていたっけねえ。
今度、確認しなくては。
女性ならば誰でもすぐ理解できるかといえば、それも断言できないところで、
昔風にいえば文学少女、の経験者なら、たぶん肌感覚で理解できる、共感。
「しばらくするとジャスパーが膝に乗ってきた」という文章に、泣き出したくなるような感情移入ができるかで、分かれるか。
ダンバースは怖いのではなく哀れなんだよ、とか。
もっとも映画や原作では醜女ゆえ女主人への憧れが際立つのだけれど、舞台は絶世の美女たちだから、意味合いが変わってしまうな。
あとがきに「完璧な小説」とある。 まさしく。
(ちなみに、ここに書かれている「予想」は、わたしのと少し異なる)
完璧なエンターティンメントとはおもてなしのことだと思い至る。
千利休のいうもてなしの極意(だっけ?)に近い効果があちこちに見られる。
どぎつい花の色の壁(あでやかで不吉な予兆)に襲い掛かられる直前には、鬱々とした暗い森の描写が続き、
絶望にたたきつけられる直前には、夢のように幸福な気分にうっとりと踊らされる。
そして周辺風景の描写の効果が、心理描写に心地よく絡んでくる。
作家の手腕に音楽のように翻弄される。
映画を観たあともそうだったが。
おままごとにも似たほんのりとなつかしいような居心地のよさが、半日くらい神経に絡み付いていた。
レベッカに絡むドラマがどうこうというより、マンダレーという屋敷や部屋や庭の居心地。(映画はセットデザインが素晴らしかった記憶がある)
マキシムと「わたし」の不器用な恋。
映画を観たとき、舞台にくらべたら格段にデリケートで力強い描写力に、だから舞台はもっと、別のところで勝負を意識しないとなぁ、とか思ったが。
その映画も、原作の繊細さをずいぶん無神経に刈り込んでいたと知り。
でもまあ、それぞれのよさは別ものだしな。
これから先の分析は、春の舞台を観てからの、お楽しみ ♪ ♪