2010.1.15. 14:00〜 SePT
凝らされた照明や入れ代わる美しい装置など、かなり演劇的な演出の入った、半能『高砂 八段の舞』、能『邯鄲』でした。
考えたら過去、数回しか能・狂言を観ていないと気付き、今の自分にはどうなのだろうと思って当日券を買う。 思いつきの行動。 初日公演の最後の1席(しかもなかなかよい)という幸運。
世田谷パブリックシアターの客席を8列くらい潰し、大きく張り出されたすがすがしい能舞台。 左右からの橋掛かり。 黒の背景に白木組みが凛と浮かび上がっている。
踏まれる床の響きが深く美しい。 能舞台の床下に埋められ、響きを支えると言われている壷は、どうしたのかな。
しかし、歌舞伎ならある程度日本語がわかるけれど、能はほぼ理解不能でした。
お約束の言い方が拾えたくらいで、あとは完全に音の響きとして聞く。
囃子方をみながらお雛様の五人囃子を思い出し、親しい気持ちに。
小鼓や大鼓は「気」の緩急で鳴らすんだと感じる。 笛は「息」。 凄まじい意気。 太鼓は「所作」もしくは「重力」でか???
2作品のうち、ひとつは泣きそうに揺さぶられ、片方は眠くて尻が痛いのをじっと我慢してた。 その差が何かは、わからない。
昨日観たミュージカルを思い出し、客席に想いを届けられるからだの在り方について、少し思い巡らす。 これは言葉では分析できない。 からだでは何となくわかるのだが。
そしてこれは世阿弥のいう「花」と同じものを指すのか、違うのか。
お能の所作は、歩くことと立つことに全てが集約されているのかな、と思う。
主人公が仮面である意味。 架空の、作りこまれた人形としてのキャラクター、が強調される。 幽玄を身にまとい。 日本人の好む幽玄とは、実際、何なんだろうね。
キャストとミュージシャン(なんていうのかわかんないんだもの)に、若い方が混じっていると、文化が受け継がれているんだなとホッとする。 場を踏ませる思いやりみたいなもの。 仕上がりにバラつきがあっても、これも味かな、と許せる。
『高砂 八段の舞』
正面に大布が垂れ、鏡の松を思わせる図。
それが ♪この浦舟に帆をあげて〜♪にあわせて、帆のように引き上げられ、風をはらんだ。
やがて下方が巻き上がって、シテ方が正面より登場。 息を呑む。
(ん? どっかのミュージカルの演出を思い出させるなwww)
スモークの効果も含めた照明が、静寂と歓喜の舞を際立たせ。
わたしはふと、溢れる光の中、
意識が巻き込まれ、自分が、
屈折した自分の生き方が大いなる何者かに許された、と感じる。
許され、祝われた。
『邯鄲』
魅力的な話だし、かなり意欲的な演出なのですが、何しろストーリーの運びが、鈍いから。
からだのリズムが協調できない。 ごめんなさい。
観ながら、足利義満はどんな思いで藤若に懸想したのか、とか余所について考えている。 (これがいつ頃出来た作品なのか、調べたがわからなかった。 少なくとも世阿弥の作ではないので、あくまでも妄想ね)
こちらのシテ方は、ただ立っていたりじりじり歩いてたりのときは幽玄に引き込まれるのに、語ったり舞ってたりするときは退屈という不思議な存在。
(シテ方は日替わりのようです)