あとりえあげん

劇作家・ミュージカル関連のコミックエッセイスト・多摩美校友会理事 活動ベースは三軒茶屋ですが八ヶ岳の別荘で在宅介護はじめました☆

[ブログ版] 世田谷区三軒茶屋で隠居してます。ときどき劇作家。HPはコチラ http://agen.web.fc2.com/

WSユース

キムさんが横浜でティーンエイジャーたちとやっているワークショップの
今日は公開日。

(15年ぶりぐらいであざみ野駅に降りたよ。 駅出口が反対方向だったので、センチメンタルは、なし)

とりとめもなく、それはもういろんなことを考えせられたよ。

ダンサーのからだを作ることや、ティーンエイジャーたちに何かを「みつけさせる」ってこと。

ワークショップを続けていくうちに、息が切れた子どもたちの集中力が途切れだすのがわかるんだ。 (去年、自分が演劇WSで経験したあの感じ)
キムさんが出している課題(具体的な状況から引き起こされる具体的な動き)はたぶん、
自分のからだのパーツをパーツとしてばらばらに意識できるか、
緩急のある自分のペース、リズムの手触りと出逢えるか、
その意識を絶えず自問自答できるか、
というからだを、自分でデザインできるか、
あたりを目指してるんじゃないかと思うんだけれど。
(どんなアートでも、結局ひとり遊びをどこまで極められるかって戦いだネ〜)

ノンストップに近い稽古だけど。 子どもたちにはキツくないかな? 休憩とったほうがよくない? でもからだや意識の持久性を訓練するためにはノンストップな稽古であるべきなのかな、とか。

子どもたちは結構、音楽に助けられて動いているから、コマメに曲調を変えたほうがよくない? 照明をぐんと暗くしたほうが自分の内面と向き合いやすいんじゃない?
でも、自分と向き合いやすくすることを事細かに手助けすることは、子どもたちにとってどうなんだろう。
表現者は舞台の上でひとりで「すべて」を背負わなければいけない。 夕べのトミーみたいに。
そのためには、自分で自分をどうにかするチカラを身につけなければいけない?とか。

むずかしい。

たぶん、手間がかかっても遠回りさせたほうが正解なんだろうなと思う。
考えることとリンクしている努力は、ある日突然バケる。 その飛躍はすごいはず。
(ただし言われるまま、考えも為しの一生懸命は無意味。 日本人はそこを間違えてることが多い。 ……これも衆愚政策の一環かもしれないけど)

 

人間の持つ面白さは画一ではないなぁと、つくづく思う。
子どもたちは全員、別々に魅力的な部分と退屈な部分を持っている。
その子自身の持つ魅力が、結局は表現に繋がる気がする。 技術の上手下手とは、完全に別。

 

キムさんのWSではお馴染みの、昔は「チェーン」と呼んでいた動きの進化系で、今は「抱き抜け」と呼ぶらしいけれど。
純粋に動きだけを追求しているだけなのに、見ていると勝手にダンサーふたりの関係性をあれこれと想像させられる、不思議で魅力的なバリエーション。
「抱きしめる」ことがスタート地点。
あのね、
ある年齢以上の男子、年齢に関係なく女子全員は、誰か何かを「抱きしめる」って行為に抵抗がないと思うんだ。 でもね、たぶん少年たちだけは「抱きしめる」動作なんて日常に免疫ないんじゃないかな。 というわけで、少年ふたりの「抱き抜け」がエラク甘酸っぱい(遠い夏の日のような……ナンノコッチャwww)魅力的な動きだった。 (本人たちは120パーセント以上に無自覚! そうなの。 無意識という色気はコワイね)

 

そしてわたしといたしましては。
リラックスした自在な動きのキムさんを楽しむ。 模範を示すついでに、その続きの向こうにまで手をのばし、少しだけ自分のからだを無邪気に楽しんでる瞬間があって。
ひさしぶりだな〜♪ こーいうキムさん。
ダンサーとしてではなく、子どもたちと対峙して、ただ伊藤キムがそこにいる……。 

でもね、キムさん。 シャツの下、透けて見えちゃった。 なのにあんなに動いちゃって、ご自愛くださいね。

 

帰りはふた駅手前の桜新町で降りて歩く。
うろ覚えで、駒澤大学駅のこのあたりに、確かおいしそうなケーキ屋さんがあると、以前見たフリーペーパーに。 あ、ここか?
夕べ、まほとソフトクリームをのせたアップルパイを食べたから、灯がついちゃったというか。
あざみ野のおいしいケーキ屋さんは、方向が違うからスルーできたんだが、
つかまりました。
うわぁ、かなりハナマル、高得点なケーキでした。
(ちょーふやケースケくんのラーメンを、呆れる資格はないかもな)

ふた駅歩いたけれど、今日の歩数は7651。
今ではノルマ9000なので、明日は1日たゅたの機嫌が悪いはず。 (明日は家に籠るだろうし、つまりあさっても、か)