「キム流ダンス批評講座」 朝日カルチャーセンター 2回目
今日は男性デュオを観ながら、イメージの跳躍を言葉にする。
キムさんは踊らず。 ああ、でも、椅子に座っているだけでも『絵』なのさ♡ 周辺の空気がふわりと固い色に滲んでいる♡
デュオを眺めながら、一瞬だけ背景に焦点を結んだら、バチッと目が合いました。 (キムさんのあの目と視線が合うと、まじ、無音な音がするって!) ふははははン♡ 以降は意識して、授業内容に没頭。
来週、ソウルで初演される作品を10数人で拝見するという超贅沢。 しかも同作品を別バージョンで2回。
振り付けもされた今津さんというダンサーは、ヒップホップがベースなのかな。 動きの妙を面白がっている。 人間の外皮を飾って、むき出して、魅せている感じが残る。
相方の前田さんは、元キムさんのユニットのメンバー。 以前、拝見したときと踊りの質が少し変わってきていて、人間をそぎ落として、内面に奥深くもぐりこんでいくような感じで、尊厳という単語を思い出させる。
そのふたりのセッションというのが、不思議な色合いを醸し出す。 ホント、「たった今」じゃないと観られない微妙な色合い、重さ。
そして媚びていないのが、気持ちいい。
1回目は稽古着で。 2回目は衣装をつけて、イントロも少し加えてという趣向。
どっちがよかった?という何気ない質問に、こっそり首を傾げてしまったわたし。 どっちもどっちだよなぁ……。
受講生の大勢は2回目がいいということで、振付家も「よかった!」と笑ってましたが。
天邪鬼キムさんはボクは1回目がおもしろかった、と。 ま、ちょっとホッとする。
作品としての仕上がりという意味では、2回目の方が強い印象を持っていたのだけれどね。
具体的な衣装(もの)というのは、思う以上に発言力があって、だからダンスという抽象表現では逆にそれが邪魔になるって気がしたのね。 観る側のイメージ/世界を狭めてしまう。
が、考え方を変えれば1回目のは不親切。 イメージを観る側の観る力に全部委ねてしまうわけだから。
ね、だから、どっちもどっち。 (どっちがわたしの好みかといえば、ご存知のとおりです)
受講生の中に、この作品を完全に受け入れられないコがひとり、いたのね。
受け入れられないかの女の言い分をこれ以上聞いていても、授業が先に進まないから、「またあとで」という言葉にくるまれて置き去りにされたワケだけれど。
わたしは、
ああ、帰り道につかまえて、かの女に言葉を吐かせてやらないとキツイかなと思いつつ、
捕まえ損ねて。
(一応、捕まえようと探したために、終了後のキムさんに絡めなかったぁ)
そのあと、どうしたかというと、
(受講生数人で一杯ひっかけて、盛り上がったあと)
かの女がキムさんの掲示板に書き込みをしていたのは聞いていたので、帰宅後、そこから辿ってメールする。
ほんの数行のメールだよ。 ただ、話をしたかったね、と。
よかった。 わたしのメールが嬉しかった!と返事がきた。
女性は特に、あ、ダメ!と思うと、ぱたんと感性の蓋を閉じて、意固地になるから。
(うるさいわね、えー、わたしもそうですってば)
心配のし過ぎか? でもそれが、袖振る縁とかナントカだと。
うん。 想いイコール重い。 間違えると、その人を押しつぶすから。
でも誰かが、指一本でガス抜きをすれば、だいたいの場合はバランスを戻す。
学生である若いかの女にとって、ダンスを見て感じとれる感情の揺れは、たぶん自分自身の確認なんだと思う。
かの女にとっては、吐く言葉さえ、自分のためだけにあるのだね。
だから好き嫌い、合う合わない、が、そのままマルバツになってしまう。
自分の世界観と違うものを受け入れられない。
わたし? そりゃ、わたしも究極、自分のために言葉を吐いていますけれど。
思いがけない自分と出会うために。
魅せてくれたご本人たちの鏡としてとか。 (しんちゃんの言葉を借りれば、舞台にいるヤツらは自分が見えないゆえ)
ここを読んでくれてるいろんな人たちへの、お裾分けとでもいうのかな。 情報の共有か。
お互いに切磋琢磨して、
一緒に、別々に、
新しいものを探そうヨ、創ろうヨ、高めようヨという気持ちをベースに。
言葉を。