2007/7/16 14・00〜 サンシャイン劇場 / キャラメルボックス
……そうか……。
この演劇集団は、キャラメルボックス と名乗っているのだった。
だったら、
型に押したように、べたで甘甘で、善意が空回りしているおもちゃ箱な舞台を目指しているわけだろうから、
今日、観せていただいた(招待枠のお裾分けでした)舞台が、きっと
正解なのだろう。 うん。
その人たちの嗜好を、他人がとやかく言っていいわけがない。
わたしは、
最初にオダカズマサが流れた時点で、シマッタ、間違った場に来ちゃった!と気付いたのだが、はい、もうあとの祭り。
こうなったら楽しもう、かれらの意図を読み取ろう、と決意。
おお。 観客に、サークルのノリで仲間意識を植えつける商魂がエライなあ、とか。
サンシャインで、涙ぐましくも、小劇場並みの前説をしてんです。
先日、戯曲セミナーで、講師の丸尾聡サンが、
趣味がどんなに自分と違っていても、多少間違ったことをしていても、
役者がその役を実感してそこに存在しているのなら、退屈はしないとおっしゃってた。
その言葉を信じて。
おもしろかったし、楽しんだんですよ。
スピーディだし、よく稽古しているし、自分の役割をわきまえているし。
台詞も聞きやすいし、客席に向かって芝居しているし。
ただ、
人の死も、家族のつながりも、男女の愛も、命の重さも、
これみよがしに扱っているのに、
大きなパズルあわせのピースにすぎなくなっているのが、気に喰わないだけです。
(うっかりすると、自分もこの手のホンを書きたがるかもなと思う)
しかも客席、充分に受けて、号泣してるし。
パズルの最終的な大ネタも落ちも、最初から見え見えなのに。
家に帰ってTVをつけたら、コナン君のアニメをやってまして。
人の死を、パズルのパーツにしてしまっているのは、これも同じ。
でもなんで違和感がないんだろう。
アニメだから? この、記号化・デザイン化された画風のせいで?
そこで、さっきの芝居の役者たちが、記号化された人物造形をしていたことに思い至り。
でも生身の役者には、嘘っぽさがつきまとい。
あとは、その嘘っぽさを受け入れられるか、られないか の差 なのかな、とか。
きっとこういう演劇空間も「あり」なんでしょう。
何よりも、この客席の動員ぶりはたいしたものなのだし。
そうよね、これは、たいしたことだわ。
ただ、
それだけではないはず、と小声で付け加えずにはいられないのが、
わたしの嗜好だってことだと思います。