あとりえあげん

劇作家・ミュージカル関連のコミックエッセイスト・多摩美校友会理事 活動ベースは三軒茶屋ですが八ヶ岳の別荘で在宅介護はじめました☆

[ブログ版] 世田谷区三軒茶屋で隠居してます。ときどき劇作家。HPはコチラ http://agen.web.fc2.com/

信用するとかしないとか

去年の台風騒ぎの時も感じたんだけど。

 

世の中の人はつまり、世の中のことを完全に信用してるってことなんだろうか。

どうせ誰か(上の人?)が何かをしてくれるからって、信じてるの? 

や、それ以前の、ただの無関心?

新型コロナの一連の騒ぎに対して、わたしはずっと、え、去年までインフルエンザをなんだと思ってたの? どう認識していたわけ?と、まず感じたんだ。

 

家庭の防災対策、

冬場のウィルス対策。

してなかったんかい。日本中のみなさんは。

 

 

と思う。

(そりゃうっかりもあるけど、防災意識があったらトイレットペーパーの備蓄は基本です)

 

 

社会なんてあやふやだし、できることは日常から自分でしておかなくては。という人も、ちゃんと多いと信じたい。

(たぶん、そういうタイプはSNSで騒いだりしない。注意深く傍観して、巻き込まれないようにしてるのだと思う)

 

 

 

さて。この1か月で学んだこと。

 

・集団ヒステリーに陥った人には、何を言っても無駄。

わたしには論点がズレてるとしか思えない「記事」で反論してくる。はいはい、もう勝手に混乱しててくださいと思うことにした。(ごめん)

 

・行政は、真実とは別のところで動く。

なので、たとえば父には、新型コロナの実際とは別に、外国と足並みをそろえるための戒厳令が敷かれる可能性がなくもないので、今の政府はそういうズレた判断行動をしかねないので、備蓄とガソリンは切らさないようにと注意する。

 

・論点をずらしてでも、マウンティングを優先して発言する人がいるので、プロもマスコミも。なんのために発信しているか見極め大切。

最初、「(免疫を落とさないために)ぬるま湯を飲んだほうがいい」と注意喚起されてたのが、「ぬるま湯でウイルスが死ぬはずない」と(たぶん西洋医学しか勉強してない)お医者の言葉の記事が出回り、やがて「27,8度って、体温より低いお湯でウイルスが死ぬって頭の悪いデマがあるんですって。イヤねえ」と会話されてる案件。

や、ぬるま湯は、飲んだほうがいいと思うよ。からだ冷やさないために。口内の雑菌を胃酸まで落とし込むために。と相手に言いながら、わたしは誰のために何のために今、訂正してるんだ?という想いが、ふと横切る。

 

ここで大切なのは、西洋医学オンリーのお医者は、間違ったことは言ってないこと。でもそのせいで、大切な予防が否定されてる。

東洋医学も学んでるお医者だったら、同じことを言ったあとにたぶん、でもお湯は飲んだほうがいいですよとか付け加えただろうに、それだとニュースとしてのインパクトが低いんだろうな。

 

という判断を、素人な自分でもできるのは、過去、インフルに対しての知識があるからだと思うの。

知識の積み重ねが、知恵になる。

 

そして、この流れの後ろで一番活躍しているのは、TVのワイドショーやネットニュースなんだろうな。視聴率・閲覧数という資本主義のひずみの奴隷。世の中の安寧よりも、あなたの健やかなほんとうの幸せよりも、ショッキング(常識の否定)が大切な人たち。

それともあの人たちは、自分たちは信用されていないことを前提に、自由な発信をしてるんだろうか。えー。悲しくないかぃ。

 

(TVが流す、したり顔の大ウソなんて、わかってるはずなのに、腹立たしいのは、わたしがどこかで人を信じたい気持ちをまだ残してるからなんだろうねぇ)

 

(あー。こうして書きだしてると、芝居が一本、描けるネタだわ)

 

 

 

 

 

地方では、コロナ陽性がフィリピンパブ(まだ日本には、こんなんがあるんかぃ!)に「菌をばらまいてやる」と遊びに行って、すれ違っただけの女の子に陽性反応が出たとか。真実はどうか、続報を待ての状況なわけだが。

ね、わかるかな。

このひとりの馬鹿が、今、たくさんの劇場が重ね上げてる膨大で緻密な努力を、一瞬で崩壊させたんだよ。

 

わたしは『サンセット大通り』の稽古場リポートで、「たったひとりの不注意が」と書きながら、「そういう」存在を意識した。不注意ではなく、わかって来るヤカラがいる可能性。ゼロではない。

背筋が冷たくなった。

人間は、恐ろしい。

その恐ろしさと、劇場は、興行主は、演劇人は戦わなければいけないのが、今なのか。

 

 

だけどわたしは「たったひとりの不注意が」という言葉を、選ぶ。「そういう」存在を意識しながらも、あえて使う。言霊を信じて。

甘い幻想。うん。だけどね。

 

 

それでも、幕をあげたい気持ち。祈り。がある。

炎は消せない。(消えるはずもないが)

出来ることを積み重ね、最後までチャンスをうかがう。それしかない。

ただ、気持ちを折ってはいけない。それだけは我慢しよう。そう思う。

 

 

負けちゃいけないとか、

安易に言ってほしくないです。戦っている相手は、いつどこから立ち上がってくるかもしれない、そういう無邪気な悪意も含まれること。無視できないこと。

そこは想像してほしい。

 

 

なのに。

そんなこんながあっても、どんなことがあっても、人間は素晴らしいと信じたい。

それがエンタメの役目なのだから、

 

たいへんよね。

 

 

 

結局。みんなで頑張ろうとしか、言いようないのかしら。

みんなでがんばりましょう。

 

 

#春は必ず来る

 

 

 

ゴドーに迷いながら

かなり前にキッカケがあって、ベケットの『ゴドーを待ちながら』の写経(劇作家用語)を始めた。

あとで理由を書くけど、途中で長い中断があり、最近復活して、現在また手が止まっている。(ので、珍しくブログ書いてるw)

 

 

写経といっても、台詞をそのまま書き移すのではなく、脳内キャストによって現代の話言葉に変換され、その勢いを書き落とす。ト書きはママ。

 

ちなみに、日本語訳しかテキストとしていない。英語だとどういう言い回し? この単語と単語は同じじゃなくていいの?となっても、そもそも英語に昏いので。調べても、たかが知れてる。

 

 

さて。

めちゃくちゃ楽しいのは、写経することで、読んだだけではわからない、作家の意図がみえてくること。

 

日本では不条理劇として哲学性を評価されてたと思うけれど、実はベケットは、正統派演劇をいかに「壊すか」に心を砕いると感じた。

楽屋落ちネタが、すっごく多い。

で。たぶんそれが、今ここ(舞台上の世界観・リアルな板の上・人生の象徴など)にいる自分らの存在意義を、結果的には問うてくるから。深い哲学とも読める。

一方で、情に訴えかけるシーンや、詩的な美しさもあって。

 

何十年か前の上演版では、コントとして演じるべきだと解説されたのも、ようやく少しわかったかもしれない。や、だったらもっと、同じ地平線に降りた芝居をしたほうが、おもしろかったのでは?とか感じたりするけれど、まぁ、昔のこと過ぎて、言い切れないわw

 

とにかく、遊び場な作品だってことは、間違いない。

 

 

 

言語学の研究者でなく、劇作家の端くれが書き落とすので。

英語ではそうなのかもしれないけど、遊びたいのはそこではないのでは?がたくさんある。

たとえば、台詞に「イギリス人は」という箇所があるけれど、当時のアイルランド人にとっての「イギリス人」は、現在の日本人にとっての「イギリス人」とニュアンスが違うんじゃないの?と思うから。

とりあえず「山の手の人は」に置き換えてみる。たぶんこのシーンでゴンちゃんがうひひと笑いたかった感じに近づいた気がする。

 

そう。愛称は、ゴゴとディディではなく、ゴンちゃんとミルくん。

これはキャラたちが勝手にそう言い始めたのよw

 

 

さくりさくりと書き進めるうち、ポッツォとラッキーが出てきて、わけがわかんなくなってきた。ゴンちゃんやミルくんからみたかれらの社会的な立ち位置みたいのはわかるけど、全体がなんかしっくりとしない。

今の日本社会、格差があるといっても、一目でわかるとか、全員の意識下に根付いてるとかいうほどでなく、

ゴンちゃんやミルくんはたぶん、年老いた外国人労働者っぽいわけだけど、

え、ええー。

 

思いついたのは、ポッツォを女性にすることで。帽子を脱ぐシーンが気の毒だけど、スキンヘッドだったらこなせる女優さんいるかしら。。。とか。

ならばラッキーは若い男か。や、何十年のつきあいという台詞はあるけど、まあファンタジーな処理で?

 

 

と。無理やり、少しずつ書き進めてたけど、ラッキーの長台詞を前にして、完全に、動けなくなった。

ポッツォとラッキーは、なにを語りたいんだろう。わたしには見えていないバックボーンがありそうよ。

 

 

 

はい。仕事でも強制でもない、いわば自主練ですからね。作業は中断。

 

 

 

 

 

ある日、SNSで。

場所を高校の学内カースト(なるほど)に置き換え、ポッツォとラッキーは女子高生の設定とした高校演劇がある。と知り、(やだなに、めっちゃおもしろそう!)

 

そうか。ラッキーは負け組・文系女子かぁ。(←すでに勝手にイメージ)

 

 

ちょっと、自分の中が動いた。

 

 

けど、あの長台詞の処理がね。見えない。闇。

狂った知性。

過去観た舞台ではいつも、若い役者さんの超絶努力に対して、うれしくなって拍手するって捉え方だったけど。違うはず。

ゴンちゃんやミルくんは、うるさ~い! ぽかすか! だけど、

ポッツォにとっては、なんかもっと許しがたい成れの果てだったはずで。。。

 

 

えーと。

 

 

 

かくして作業は長いお休みに。

 

 

 

 

ん。ラップ調だったら?

 

 

もしくは、デスメタル???

 

 

 

 

 

なんとなく、腑に落ちた。

作業再開。これが二週間くらい前です。

長台詞も、それを前提にしたら書き換えられるようになり、格調は失せたけれど、繰り返されるエコーのような面白み、くだらなさが浮かんできた。

 

はぁ。

 

これは、こういう台詞だったのか。

 

 

 

そのあとは、めっちゃサクサクと進む。たぶん、ベケット自身も筆がのってたんだと思う。

 

 

 

で。

今度はどこでつまずいたのかって?

 

ゴンちゃんが叫んだ。「黙らせて! 少しくらいなら、なぐってでも」

(原文/黙らしちまえよ。横っつらを張ってやりゃいい)

ん?

だめじゃん。絶対。女子なぐったら。。。

 

 

え。どうする?

 

 

今の妥協案は「黙らせてよ!」だけにして、

ミルくんはポッツォをなぐらず、服をひっばる。とか。

 

 

まぁ。わたしの脳内で、ポッツォはゴスロリか姫系の、たっぷりして身動きとりづらい衣裳なので、成立は、する。

 

 

ん。これでよしとして、先にすすむか。

o(ΦωΦ)o

 

なう。

 

 

『スチュ』のついしん

書き忘れ。

世田谷パブリックシアターの凄さ。たぶんだけど。


メアリ・スチュアート』では、不思議な構造で舞台を使っているのだけど、

どんな角度でも、役者の声が自然に聞こえた。


なんなら階段の下、まだ姿も見えず、背中を向けてるはずなのに、そこからの声が違和感なくそこから聞こえる。

当たり前すぎて、不思議に感じられない。から恐ろしい。

客席に背中を向けても、声の聞こえ方は変わらなかった。


ノンストレス。



恐ろしいコ。。。

『スチュ』と『ステュ』

東京では同じ時期に、

『メアリ・スュアート』

『メアリー・スュアート』

と、二本のストレートプレイの公演がありました。(あ。まだやってます! さぁ今すぐ三茶と赤坂に駆けつけて、ともに酔おう!)

 

メアリ・スチュアート』はシラー作の群像劇で、森新太郎さんが演出。

『メアリー・ステュアート』はそのシラーの戯曲をもとにした、マライーニ作の二人芝居で、大河内直子さんが演出。

単独で観てもスリリングで豊かな味わいですが、あわせて観たら、もう至福。演劇の奥深さ美しさに酔いました。

 

 

もとはね、『ビッグ・フィッシュ』の霧矢大夢さんに惹かれて、他のも観たいなぁと探しあてたのが『ステュ』のほう。知寿さんのストレートプレイも劇団以来観てないし! これは観たい!

チケットは最後尾の壁際でしたが、200人くらいの小屋だから、全部たっぷり目撃出来ました!

 

『スチュ』のほうはね。実はどうしようかとズット迷ってました。森さん演出だから仕上がりに間違いないのだろうけど、うーん。。。 観ることにした決め手は美術(妹尾さま)で。この劇場の今まで使われたことのなかった機構を初めて使った、つまりセタパブでしか見られない空間!というネットの記事を読み、即買い。

 

 さて。このふたつの舞台は、同じモチーフであるにも関わらず、ことごとく対照的で。どちらもがそれは素晴らしく。役者さんの持つ美しさを存分に引き出し、客席は息をつめてくぎ付けになるだけだったのです。

 

(こういう、緻密で、全員が役割と着地点を自覚している芝居を、ミュージカルでも当たり前に観られるようになると、うれしいんだけどなぁ)

 

 

 

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あーもう! ビアさんがこんなにステキだったとは! エリザベスの役作りと体現が素晴らしかったぁぁぁ! 愛しくて、かわいくて、必死で、怖くて、哀しくて。

 

長谷川さんのメアリは、言われたことをなぞってるだけみたいな固さが残り、これからを楽しみにって感じの女優さんなのかなぁと思いきや。

終盤になって、死を覚悟してからの祈りをたたえた存在感が、透明で、神々しく、張り詰めた糸のように美しかったのでした。男の人が大好きな、聖女。この空気感を醸せる女優さんは、稀有です。

 

で、メアリを聖女として描くのが、あー男性の演出家さんならではの視点だなぁと、あとになってから思うのでした。

このふたりの女性が、さまざまな男たちの想いに翻弄され、不幸になっていく。この、男たちの言動も、だってしかたないわよね、と思えるようになったのは、わたしが年をとったからかしら。

 

そして侍女役の鷲尾さんが、しびれるような完璧な存在感で、ため息つきながら拝見しました。

 

あとねえ、美術! すごかった! ほぼ、なんもない。見慣れた舞台奥までむき出し! で、張り出し花道が客席中央の階段まで続くの。わかる? 手前から奥までの距離が、大劇場より深い。

でかい流木風のオブジェがどどん!とあるだけで、イギリスの森と日差しになるのも、演劇の魔法。

 

ゆえに照明も! オレンジやブルーの切り替えとかが、音楽のようにシーンを作ってたし!

 

 

 

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大劇場のセンターに立つクラスの女優さんふたりが、小劇場を極上の芝居で満たしてくれる陶酔。なんという贅沢。

 

テキストの趣向は、ふたりの女王とその侍女を、ふたりの女優が代わる代わる演じ、綾なすことで、すべての女の生涯につきまとう哀しみ苦しみ叫びをあぶりだす感じなのですが、

大河内さんの演出は、ごった返した楽屋で準備中の女優たちの間で、湧き上がり、あやふやな時間軸の中の白昼夢のように交わされるといったふうで。

 

霧矢さんも知寿さんも男前なのに可憐で、対立するでなく、なれ合うわけでなく、しゅっとそこに立ち、流れるようにセリフを粒だてる。特に役を演じ分けるでなく、シーンの境目も強調せず、なのに無限の風景が、劇場を満たし、こちらの想いは宇宙まで飛ぶの。

ときには甘く、ちょっと百合っぽく香りたち。こちらも微笑む。

 

知寿さんのエリザベスの解釈が、妙に腑に落ちる。なんというのか、従来あるエリザベス像とはズレがあり、つまりそれはたぶん、ほかの映画や演劇では男性視座で描かれるからかもしれなくて。とにかく、ものすごく揺れる内面を感じさせるベス。そしてテキストだけだとたぶん、めっちゃ嫌な女になりかねないキャラやセリフを、品を損なわず愛嬌すら持たせてしまうのが、知寿さんの魔法だわ。

 

一か所、どうしても気になったのが首切り斧のことを「ギロチン」と訳していたことで、あの時代にはまだギロチンなかったのに何故? 言いづらくて置き換えたのかしら。時代を超越した楽屋(だってあの時代には女優はしなかったわけだし?)だからありなのかな? まあ、どうでもいいか。

 

 

でね。

この順番で観たからこそ!があって、

『ステュ』のセリフにしか出てこないモーティマーやレスター伯とかが、『スチュ』で観た役者さんたちのイメージで立ち上るw

や、レスター伯は『ステュ』ではそれはひどい言われようで、途中から吉田さんとは、かけ離れた。

 

 

 

ふた公演にかかわったみなさま!

演劇を観る至福を、ありがとうございました!

さて。

ミュージカルを観ました。熱狂的な評価を得ている作品で、すばらしい箇所もたくさんありましたが、

わたしには、

根本的な部分で、めっちゃ首を傾げることが。。。

 

さて。

ブログに感想を書くか書かないか。

書くにしても、正直に書いていいものかどうか。

すごく迷いました。迷ってます。だって、

世の中で大勢が評価してるんだったら、なにもわたしが水を差す必要ない。

でも、これはどうなんですか?な部分を、大勢に問いたいとも思う。

 

悶々w

 

 

で。今日は、

多摩美校友会の[出前アート大学]のイベントで、

八王子校舎の近所の小学生たちと多摩美の在校生たちが、卒展を通して出会い、会話する企画で。

その際のご挨拶とかでの、油画学生たちのピュアでイノセントな発言に、ぴゅんぴゅんと刺激され、

 

そうよね!

発言は、正直に!だよね! と決心し。よしブログ書こう!

 

 

と。

その帰り道。

 

 

携帯に久しぶりの仕事の打診が入りました。あのホラ、お稽古場がらみのやつ。ミュージカルの良さをひとりでも多くの方たちに知ってもらうべく、作品の良さをアピールするやつ。。。

 

え。

ありゃ?

 

 

えーと。

 

 

これから再びそんな立場に立つのなら、わたし、辛口で正直すぎる発言は、遠慮すべきでは??? オトナとして。

 

 

↑↑ はい。今ここ。迷ってます。

o(ΦωΦ)o